第4回 BUNCAコンペ小説部門入賞作品「辺境自転車店」#4- mugiko -

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第4回、BUNCA Competition「小説部門」で見事 最優秀賞に選ばれた、mugikoさんによる「辺境自転車店」#4を公開しました。辺境自転車店とは一体…?真相に迫る最終回!是非ご覧下さい!

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商店街で教えられたとおりの駅で降り、桜子はあたりをきょろきょろ見まわした。何かこのあたりの案内板がないかと思ったのだ。店の名前が判らないうえに、教えてくれた金物屋の主人も年配で記憶が怪しい感じだった。かろうじて思いだしてくれたこの駅名と海沿いのどこか、という曖昧な情報のもと、とりあえずきてみたはいいが、探しだすには少々難儀しそうだった。

移転するんだったら、はじめからそっちの地図を描いてよね。
一昨日、シャッターをおろされた空き店舗の前で呆然と立ち尽くした桜子だったが、あきらめきれずに商店街の人たちに聞きまわり、金物屋の老店主から移転したらしいという情報を得た。

「サカイさん、海のそばでのんびり商売したいって前から云っとったからなあ」
「そうなんですね。サカイさんっておっしゃるんですか。あの、店の名前は? それからどこの海の近くかご存知ですか」
知っている人がいたと勢い込んで質問をしたが、老店主は「あー、どうだったかなあ」と首をかしげた。

「いっつもわしら、サカイさんの自転車屋とだけ呼んどったからなあ。ここいらはそんな感じでな、うちも野上の金物屋、そこの八百屋だとみっちゃんの八百屋とか、いちいち店の名前は覚えとらん。なあ」
最後の「なあ」は店の奥でこっくりしかけている奥さんらしき女性に向けたもので、もともと耳が遠いのか、客がきてもいつも居眠りしたままなのか、会話に入ってくる様子は見受けられなかった。

「まあ、そういう訳で、すまんなあ」
「じゃあ、海の近くっていうのはどうですか。場所とか、近くの駅の名前とか、判ります?」
「あー、そっちな」
同じ商店街で店名を覚えていないくらいなのだから、こちらのほうが望み薄には違いないと思いつつ、桜子は一応確認のために訊いたつもりだった。ところが意外にすんなりと思いだしてくれたのには驚いた。

「あのあたりは昔よく潮干狩りにいったからな。そこが新しく整備されて立派な海浜公園になって、ほら、あんたもテレビで見たことがあろう」
そう云って口にした名前は、確かに毎年海開きの時などにテレビによく映る海水浴場のある公園の名だった。

「降りる駅は、と……」
老眼鏡をかけ直し、机にあったメモ用紙に書いてくれた。

「ありがとうございます。助かりました」
「いやいや、何も」
気のよさそうなしわくちゃの笑顔を浮かべる主人に頭をさげ、その日は帰った。

そして今日、改めて店を探しにきたのだが……。
案内板は見つからず、桜子は空を仰いだ。何を自分は意地になっているのだろう、と思う。向こうが渡した地図が間違っていたのだから、払えなくてもそれはこちらのせいではない。むしろ、移転するのをわざと教えなかった自転車店の店主にいじわるをされたとも考えられるではないか。

桜子はぷりぷり怒りながら、でも、それだからこそ、絶対に払ってやる、と息巻いてもいた。圭と出会えた不思議な夜を大切にしたいと思えば思うほど、夢ではない、丸ごと信じると決めた自分がふっと揺らぎそうになる瞬間があった。あの無愛想な店主が云ったように「死者は生き返らず、生者はただそれを思い知らされるだけ」という虚無感に似たものがよぎる瞬間なのかもしれなかった。

それでも生きていくための原動力に、桜子は店主との約束を守りたいのだ。圭との約束を守るためだけに、目の前の日常をこなしていくだけではまだつらすぎる。誰でも、何でもいい、ささいな約束を守るという目的を果たしていくことで日々を生きていければ、少しだけでもこの先の未来を歩んでいけそうな気がするのだ。

だから絶対に払ってやるんだから、と小さく拳を握る。
こんなところまで訪ねてきたと知ったら、さすがの無愛想な店主もきっと驚くに違いない。そうしたら桜子はすずしい顔でこう云ってやるのだ。

ほら、ちゃあんと払いにきたでしょ。誰だっけ、そう云ってほんとうに払いにきた奴はいない、とか何とか疑ってたのは。わたしを舐めないでよね、と。

その時にどんな表情を浮かべるのか、はやく知りたくてうずうずしてくる。案内板はないが、ここから海まではそう遠くなさそうだった。事前の下調べによると、海沿いに古いレンガ倉庫が並んだエリアがあり、近頃はその倉庫を工夫して現代風の店舗に再利用している店が次々に開店し、若者や観光客が訪れるおすすめスポットになっているらしい。海浜公園の向かいの島々に続く大橋をサイクリングで利用する客のためのレンタサイクルなどもあるようで、案外そのあたりを目指していけば、ふつうの自転車店もいくつかあるのではないかと桜子は目星をつけていた。

しばらく歩いていくと、風に海のにおいが混じってきた。倉庫の立ち並ぶエリアにいくまでは広い遊歩道になっていて、のんびり散策するのにうってつけだった。車が入ってこないので、ちょっとした広場のようなところでは子どもたちが自由に遊んでいた。

楽しそうな様子に、桜子も思わず笑顔になる。
そんな広場で遊ぶ子どもたちの中でふと目をひいたのが、端っこのほうでひとりで赤い自転車にのっている女の子だった。同じところをぐるぐるとまわる運転がどことなく危なっかしく、ハンドルを握る手が定まらない。補助輪を外してはいるが、のれるようになってまだ日が浅いのではないかと桜子は考えた。

女の子の顔つきは真剣そのものだ。少しでも気を抜くと、世界が終わりそうなくらいの気迫に満ちている。そんな表情をしているからか、桜子が目を離せずに見つめていると、近くで追いかけっこをしていた男の子たちの一団が女の子の目の前に突如なだれ込んできた。

「あ」
驚いた拍子にハンドルはぐらぐらとひときわ大きく揺れ、制御不能になった自転車ごと女の子は倒れ込んだ。誰もぶつかりはしなかったが、自分たちの遊びに夢中な男の子らはそれに気づかず去っていってしまった。
慌てて桜子は駆け寄った。

「大丈夫?」
「うん」
女の子はすっくと立ちあがり、倒れた自転車に目をやった。自分のことよりも自転車のほうが心配そうだった。

「ひざ、すりむいてるじゃない」
桜子が指摘してもかまわずに自転車を起こそうとするので手伝ってやる。

「ありがとう、お姉ちゃん」
「自転車、大事なのね」
「うん」
にっこりほほえむ笑顔がかわいらしかった。

「ちょっとだけど血が出てるわ。このハンカチで押さえて。自転車はわたしがもっててあげるから、傷口を洗うか消毒しないとね」
さげていたバッグからハンカチを出して手渡すと、女の子は屈んで素直に傷口にあてた。水道のある場所を探して桜子が首をめぐらしているのに気づいたらしく、「家に帰るから大丈夫だよ」と云う。

「おうち、近いの?」
「すぐそこ」
「そうなの、じゃあ一緒にいこうか。歩ける?」
「うん、平気」
なかなか強い子だと感心しながら、子ども用の赤い自転車を桜子が押してその子の家へと向かう。

しばらくいくと古いレンガ倉庫の連なりが見えてきた。女の子はそのうちの一軒を指さすと「あそこ」と教えてくれた。近づくにつれ、店先のディスプレイの具合からそこがどうも自転車店なのではないかと桜子には思えてきた。
そういえば、どことなくこの赤い自転車に見覚えがあるような……。
「あなたの名前はなんて云うの?」
胸の高まりを抑えきれずに隣にいる女の子に訊ねた。

「マホだよ」
「えーと、苗字……上の名前は?」
「サカイ。サカイマホ」
サカイさんの自転車屋。ビンゴだ、と桜子は女の子に見えないように小さく拳を握りしめた。

境自転車店の中を覗くが誰もいない。店は以前のごちゃごちゃした雰囲気より、もう少しすっきりと落ち着いた感じになっていた。

「おうちの人、いないのかな。困ったね」
「ちょっと待っててね」
なぜか女の子は得意げに云うと、つま先立ちでレジ横にある押しボタンを三回続けて押した。よく見れば、店主が不在の時には押すよう下に記されていた。女の子の小さな指と連動してかすかに頭上でベルが鳴ったような気がした。店主が上の階にいる時の呼びだし用なのだろうと桜子は理解した。二階が自宅という店の形態は変わっていないようだ。

「これね、お母さんが考えたの。それでつくったのがお父さん。すごいでしょ。三回鳴らすのは真帆だけの秘密の合図なんだよ」
「へえ、そうなんだ、すごいね」
そう云うとうれしそうに笑う。
階段からひょろりと背の高い男が現れた。あの店主だ。髪は今日もぼさぼさだが、無精ひげは生えておらずこざっぱりしたようだ。

「おかえり……ああ、いらっしゃい」
娘ひとりと勘違いしていたらしい店主は、隣に桜子がいるのに気がつくとそう云いかえた。この間の夜と同じぶっきらぼうな出迎えかたで、桜子はくすりと笑う。

「こんにちは」
きっと驚くに違いないとある程度期待を込めてあいさつをしたつもりだったが、店主の表情にとりたてて変化は見られなかった。しいて云えば、娘と一緒に現れた桜子をどう扱うべきか思案しているように見えた。

「えーと、お客さん?」
「違うよ、お姉ちゃんが真帆が転んだの、助けてくれたんだ」
質問に女の子が答える形になり、店主の視線はすっと桜子を離れて娘へと移った。

「あ、ひざ、すりむいてるじゃないか」
動揺した様子で階下に向かうと、二階に向かって店主が大きな声を出した。

「おうい、鳴海。救急箱もってちょっとおりてきてくれ。真帆が転んで怪我したって」
この人もやっぱり、親なんだな。
その慌てぶりに、桜子は男の親としての一面を垣間見たような気になって心があたたかくなった。

「いや、すみません。助かりました」
こちらに向き直り、軽く頭をさげる。

「いえ。あのう、もしかしてわたしのこと、覚えてない?」
桜子は思いきって訊いてみた。娘の怪我に気をとられて眼中に入っていないだけかとも考えたけれど、礼を云うのに目が合っても店主が気づいた様子がなかったからだ。思いだしてみれば、あの夜はすっぴんでスウェット姿、おまけに精神的にも身体的にもぼろぼろの状態だった。一応それなりに化粧して身なりも整えてきた今とはずいぶん違って見えたかもしれない。

「ん? いやあ……」
「この間の修理代、返しにきたの、約束どおり」
「修理代?」
あまりに反応が鈍いので、桜子はちょっといらいらしてきた。せっかく店まで探しだして支払いにきたというのに、このままでは自分が想像していたような自慢できる展開にはなりそうもない。

「ほら、一週間前の夜、真夜中にパンクを直してくれたでしょう? 財布をもってなくて後日払いにいくって約束して、地図を描いてもらって帰ったの。なのにこっちの店の地図じゃないんだもの、探すのに時間がかかっちゃったわ。移転するならするであの時教えてくれたらよかったでしょ、人が悪いったら」
「………」
説明するつもりがつい責めるような口調になってしまった。店主が黙り込んだので、気を悪くしたのかと桜子は心配になる。しかし、次に店主の口から出たのは予想外の言葉だった。

「悪いけどお客さん、あんた、どっか別の店と勘違いしてるんじゃないか」
「え」
「うちは夜に店なんかやってないよ。どっちかというと陽が暮れたらさっさと閉めちまうほうだし。真夜中なんてなおさら」
これだけくわしく説明して、覚えていないというかこちらの勘違いだなんてよく云ったものだと桜子は呆れた。つい一週間前の話をはぐらかそうとする店主の意図が判らなかった。こうなったら、と、桜子も意地になる。

「そんな訳ないでしょ。転んで怪我したわたしにあなた、救急箱を貸してくれたじゃない。あれと同じの。わたしはちゃんと覚えてるわよ」

母親と思われる女性が二階からもっておりた救急箱を指さして桜子は語気を強めながら云った。娘の傷の手当をしていた女性が、声を荒げる桜子のほうを何事かとふり返った。そんな目で見つめられ、恥ずかしさに頬が赤くなるのを感じた。

「いや、でも……」
「でも、何よ」
突っかかる桜子を店主のほうはなぜか気の毒そうに見て云った。

「でもな、お客さん。そうはいっても、この店、移転したのはもう一年も前のことなんだが」

桜子はぼんやりと海を眺めていた。ずいぶん遠くまできてしまったような心もとなさを感じながら。
いったい何が起こったのか、さっぱり判らなかった。

境自転車店の店主を自分が見間違う筈はない。店は変わっても、あの特徴的な外見としゃべりかたを忘れるなんてありえない。けれども何かが違っているような気もする。それが何なのか、桜子はさっきからひとりで海に視線を漂わせつつ考えているのだ。

真夜中の自転車店にいた男とさっきの自転車店の男。
同一人物でありながら、桜子に違和感を抱かせた決定的な違いは何だったのか……。
海面に陽ざしが降りそそぎ、きらきらと光っている。たゆたう光はうつくしく、桜子は一瞬目を奪われた。そしてここは圭を奪った川のいきついた果てだということを突然意識した。苦しいけれど、うつくしい。光をうつくしくたらしめるのはどこかに影が潜んでいるからだと桜子は思う。
あの男もそうなのだ。

夜に出会ったからではない、桜子がはじめて見たあの男は影の中にいた。それに対してさっきの男は光の中に生きている。それが両者を分かつ境界だと桜子は気がついた。

どうしてそんなことになったのか……。
明確な理由が桜子に判る筈もなかった。同じ人間が光と影の中にそれぞれ生きている、そんなことがあるだろうか。以前の桜子ならば、ない、と即座に断言しただろう。莫迦莫迦しく荒唐無稽な話だと、鼻先で笑い飛ばしたに違いない。でも今の桜子にはできなかった。

向こうの世界の圭とつながることができた桜子には。
あの時の自分には圭と一緒にいくという選択肢があった筈だった。それを圭が許さなかった。圭とは別の流れに向かい、そして今の自分がここにいる。あの男にも同様のことが起こらないと云い切る自信は桜子にはなかった。

大きく運命の流れを分ける何事かの末、男は別々の流れに生きている、とは考えられないだろうか。
生きていれば、選択肢の数だけ世界が存在するとどこかで聞いたことがある。あったかもしれない世界同士が交わることはけっしてない。そんなことになったら何もかも滅茶苦茶になってしまうからだ。けれどもごくまれになら、そういうことが起こっても不思議でない気がする。影に生きる男と光に生きる男。瞬間的に境界の垣根を越え、影が光の中に顔を出す。自分が出会った自転車店の店主がもしもそうだったら? 

揺れる水面の光の乱反射の中に、桜子は影を探すよう目を細める。
すべての川の流れがそそぎ込まれるこの海は、ほんとうに混じりあったひとつのものなのだろうか。それともあらゆる無数の可能性を内包するだけの大きな器のようなものに過ぎないのか。
桜子の問いに、海はよそいきの顔でただうつくしさを見せつけるだけだった。
おだやかな波がゆっくりと砂浜に寄せては返す。桜子はこれから自分がどうするべきか考えた。

すると、ひとつの答えが波間の泡のように浮かんできた。
約束を守らなきゃ。
果たせない約束などした覚えはない。いつになるか判らないけれど、絶対に支払ってやる。自分が約束を交わしたのは影に生きるあの男だけなのだ。

「それまで死ねない理由ができちゃったな」
そう呟く桜子の口もとはわずかにほころんでいた。



<6>


暮れかけた茜色の空にタバコの煙がゆらりと昇っていくのを眺めながら、そろそろ閉めるか、と境は考える。

きっちりとした閉店時間がある訳ではないが、だいたいいつもそんな感じにスイッチが切れる。学校の下校時刻は迫っているし、暗くなってからわざわざ新車を買いにくるような客もいない。商売熱心な同業者はもう少し遅くまでやっているところもある。しかし境は自分がそんなに商売に向いていないことをよく知っていた。真帆や鳴海がいた頃は、海の近くでのんびり暮らしたいという夢もあった。

夢、か……。
ふわふわと甘い綿菓子のような幸福な夢を自分が見ることはおそらくこの先ないだろう。誰か知らない通りすがりの手が気まぐれにくしゃりと潰してしまうような夢は。残るのはべたべたとした後悔だけなのだから。

立ちあがり、店先に出していた商品の自転車を中へとしまいはじめる。店の中に転がっている工具類などはほったらかしのままだ。明日も使うものをわざわざ片づける気は毛頭なかった。自転車を店の中に入れるのはただ単にそうしないとシャッターを閉められないという理由だった。

特に急ぐこともなく、薄い唇にタバコをくわえたまま、境はだらだらと自転車を運ぶ。夕方になると商店街のスピーカーから流れだす古い童謡を聞くとはなしに耳にしながら。

おててつないで みなかえろう
からすといっしょに かえりましょう

歌詞の一節のところで境がぼそりと呟いた。

「帰るってみんな、どこに帰るんだろうな」
時おり自分のもとに現れるおかしな客たちがどこへ消えていくのか、境には判らなかった。自転車店を再開しだしてからはじまった奇妙な現象と同時に店にやってくる客たちのことだ。

まあ、向こうからしたら、俺のほうが何者なんだって話だろうが。
時間も空間も越えて、境はある瞬間だけ店ごと飛ばされる。異変を感じた時にはもう、店の外の景色は一変し、さっきまで朝だったのが突然夜になっていたりする。当然、はじめは何が起こったのか判らなかった。大切なふたりを失った衝撃のあまり、境は自分がおかしくなったのだと思った。たとえば記憶喪失のような一過性の脳の混乱がもたらす何かとか精神的な錯誤状態とか。医学にくわしい訳ではなかったが、そういうふつうでないことが自分の身に起こっても不思議ではないと分析できるくらいの知識はあった。

それがどうも的はずれな推量らしいと気づいたのは、ひとまず現状を把握しようと店の外に出ようとした時だった。戸を開け放し、何もない筈の店の入り口からなぜか出られないのだ。そこに見えない境界線があるように、足は固まり、伸ばした腕が透明な壁に押しもどされる。パニックになりそうな自分を抑え、何度か試したが結果は同じだった。

どうなってんだ。
ぼさぼさの頭をかきむしり、落ち着こうとタバコに火を点けた。そこに外から客が自転車を押しながら現れたのだ。

修理してほしいと弱りきった顔で頼む客は、境が通過できなかった境界線を難なくまたいできた。そのことを問いつめても、何を訊かれているのかまったく判っていない様子だった。境のことを気味悪そうに見つめつつも、客は、いいからはやく自転車を直してくれ、と懇願した。その目には涙が浮かんでいた。何か事情があるのだろうと思ったが、境はそれ以上何も訊かなかった。そして黙って作業にとりかかった。

修理が終わると客は深々と頭をさげ、帰っていった。うしろ姿をぼんやりと見送っていた境の視線の先で、客の姿がふっとかき消えた。その瞬間、自分も店ごともとの状態にもどっていたのだ。

そんな現象が不定期に続き、謎の解明はできないまでも、何となくこの世界のルールのようなものが判ってきた。簡単に云うと、あちらの世界で境が店から出ることは不可能で、またどこかに連絡をとることもできず、そしてやってくる客の自転車を修理しない限りはこちらの世界に帰れない、ということだ。

やってくる客たちはさまざまだった。年齢、性別、職業、そういったものに共通点はない。ただ一様にみな何かを抱えているらしいというのだけはしばらくして感じた印象だった。実際に身の上話をはじめる者、雰囲気のみを漂わす者、やり場のない怒りやかなしみをぶつけてくる者……。そういった者たちがもつ独特の感情の存在に気づきながら、境はなるべくそちらに目を向けないようにしてきたつもりだ。自分自身で手いっぱいだったのもあるが、その場しのぎのなぐさめの言葉が何の役にも立たないことを身をもって知っていたからというのもあった。それに惰性で生きているだけの自分なんかに、たとえ口先といえども発するに値する言葉が残っているとはとうてい思えなかった。

彼らの抱く感情あるいは欠落した部分と、自分の中の何かがひきあってこんな現象が起こるのだろうかと考えたこともある。けれど、もはやそれもどうでもいい。こんなことがいつまで続くのかとうんざりしかけた頃、境はある重大なことに気がついた。
それをもたらしたのは、春来軒の若者だった。

春来軒は境も何度かいったことがあった。隣町にあり、今まできた客の中で唯一知っている店の人間であることに境の胸は跳ねた。その若者に見覚えはなかったが、近頃雇ったアルバイトなのだろうと思った。この半年ほどは店を訪れていない記憶があったからそれならつじつまが合う。

うれしくなって境は訊ねた。大将は元気かい? と。
すると若者から大将が亡くなったと聞き、驚いた。年配だったし、しばらくいっていない間にそうなっても仕方ないかと思うが残念だった。だが、もっと驚いたのはそのあとだ。いつ亡くなったかと重ねて訊ねた境に、若者は「一年くらい前」と答えたのだ。
そんな筈はなかった。

はっきりとした日にちを覚えている訳ではなかったが、いくら何でも一年ということはない。境は内心の狼狽を隠して若者を見送った。そしてもとにもどってすぐ、隣町の春来軒にいってみた。あの若者はおらず、代わりに大将が奥さんとふたりで元気よく店を切り盛りしていた。

境は啞然としたまま立ち尽くした。目の前の光景をいったいどう解釈するべきか。若者が自分に嘘をついたのかとも考えた。しかしそんなことをして何の意味がある? わざわざ春来軒の岡持ちをもって頭からラーメンの汁をしたたらせた情けない姿で現れて俺をだます意味が? ある訳がない、というのが境が出した結論だった。

ひょっとすると、こちらの世界とあちらの世界ではちょっとずつ何かが違っているんじゃないのか?
飛躍した考えかもしれないが、境はこの考えにとり憑かれた。もうすでに理解の範疇を超えるできごとが日常になっているのだから、そういうこともありえるのではないかと思えてくる。あちらで死んだ筈の者がこちらで生きているのなら、またその逆も。真帆と鳴海が生きている世界があちらにはあるんじゃないのか……。
確かめたい、と痛烈に思った。

けれども境は店から出ることができないのだ。あちらの世界の客たちは自由に出入りできるというのに、だ。無情なルールをうち破るため、境は必死で考えた。何か方法がある、絶対に。それからいき着いたアイデアもほんとうにうまくいくのか自信はない。しかし現状この方法以外考えられなかった。

境が思いついたアイデアとは、客たちの自転車の部品(パーツ)を集め、その部品で組みたてた自分用の自転車にのって店からの脱出を試みるというものだった。

客たちと同様、彼らがもってくる自転車もまた軽々と境界を越えてやってくる、そこに目をつけたのだ。もちろん、自転車の種類も千差万別で部品も細かく分ければそうとうの数になる。何もせずにそれらがすべてうまく組み合わさることはない。それなりの加工を施したり、壊れた部分は補修したり、使える状態にするだけでひと苦労する。それをまたひとつの自転車として機能させるための調整にはまた別の技術が必要だ。完成させるまでには途方もなく時間がかかることだろう。

手っとりばやく客の誰かの自転車を奪い、のって外に出られるか試せばよさそうなものだが、境はそうしなかった。商売熱心ではないとはいえ、これでも自転車職人の端くれだ。客が大事にしている自転車を強引に奪って逃げ去るような真似はしたくなかった。だからある時には正直に頼み込み、ある時には交換する前の破損したものをひきとる形で、またある時はこっそりと判らないように別のものと入れかえて、そんな風に少しずつ手もちの部品を増やしていった。

ことりがゆめを みるころは
そらにはきらきら きんのほし

夢、か……。
ふわふわとした綿菓子のような甘い夢はもう見ない。けれど、叶えたいと切実に願うこの欲望をまた夢と呼ぶならば、強く、強く、自らの手で握りしめるのだ。誰にも見つからないように、誰にも潰されないように。

残りの自転車をしまい終え、店先でもう一服しながら煙の行方をたどるように空を見あげる。空では茜色の夕やけが追いたてられ、群青の夜が覆いかぶさろうとしていた。

今日も一日終わったな。
境は小さく息を吐き、瞬きはじめたばかりの頼りない星の光をしばらく眺めた。

シャッターを閉めようと鍵をとりに入ったところでぐらりときた。地震ではない。あれが起きる前兆だった。目の前がぐらぐら揺れるがものが落ちたり倒れたりすることはない。少しは慣れたとはいえ、やはり何かに掴まっていないと立っていられないような気がする。近くの壁に片手をつき、境は店の片隅をにらみつけるように凝視した。そこにはまだ自転車の形にさえなっていない、これまで集めた部品の数々が置いてあった。

きたな。
何事もなかったかのように揺れがおさまると、境は壁から静かに手を離した。店の外は知らない景色に一変していた。もう夜ではなく、明るい陽の光で満たされている。その光の彼方から、ふいに自転車を押す人物が現れた。客だ。今にも泣きだしそうなその客に、境はいつものように声をかけた。

「ああ、いらっしゃい」
こうして辺境自転車店の一瞬は過ぎていく。



<了>



前回の話を読む

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mugiko
広島生まれの広島育ち。ありがたいことに片島麦子の名前で本を何冊か出していただいています。
『銀杏アパート』『想いであずかり処にじや質店』など。
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