第4回 BUNCAコンペ小説部門入賞作品「辺境自転車店」#3- mugiko -

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第4回、BUNCA Competition「小説部門」で見事 最優秀賞に選ばれた、mugikoさんによる「辺境自転車店」#3を公開しました。今回、不思議なお店に訪れる人とは…。前回に引き続きmugikoさんの作品をお楽しみ下さい!

<3>


自転車店の朝は案外はやい。
通勤通学途中の者たちが自転車の不調を訴えて店に持ち込むことがあるからだ。そういう客たちのために店のガラス戸を半開きにして、カーテンを開けておく。本格的に開店してはいないけれど、くる者、いや、くる客は拒まずの姿勢だ。

店主の境は今朝もそうやって微妙な具合に店の戸を開けてから、朝食をとりに二階の自宅へとひき返した。以前はついでに郵便受けに入った新聞を手に階段をあがったものだが、今は新聞をとっていない。世の中の動きに無関心になってからもう二年経つ。

「いただきます」
トーストとコーヒーだけの簡単な朝食をとると、しばらくすることがない。ベランダのない窓の柵にもたれてゆっくりとタバコをふかし、昇っていく煙をぼんやりと眺める。気だるげにふり向き、妻の鳴海(なるみ)と娘の真帆(まほ)の写真に目をとめると、まずいところを見つかったというように肩をすくめた。

「ヨーグルトは買い忘れたんだ。わざとじゃないからな」 それだけでは身体に悪いからと、鳴海はサラダやヨーグルトを必ず朝食につけていた。ひとり分のサラダをつくるのは面倒なので、境はカップのヨーグルトだけは食べるよう努めている。けれども昨日はつい買い忘れた。気を抜くと、冷蔵庫の中身はもちろん、暮らし全般に興味を失ってしまうので、これはよくない兆候だなと自分を軽く戒める。

部屋の中に流れたタバコの煙は線香の煙と混じりあい、一種独特の香りになる。そのにおいにももう慣れてしまったと境は思い、慣れてしまった自分の嗅覚にわずかにいらついた。

二年前、境は鳴海と真帆という宝物をふたついっぺんに失った。交通事故だった。鳴海が幼稚園の迎えにいった帰り、手をつないで横断歩道を渡っていたふたりに向かって信号を無視した大型車がつっ込んだのだ。

呆気ない別れだった。
それから境の心は一度死に、今も生き返ったのかどうか正直なところ判らない。たぶん、一部はずっと死んだままなのだろう。あらゆるかなしみの果てまでいき着くと、人は惰性だけで生きていけるのだと境は悟った。

流しでざっと食器を洗い、水切りかごにふせて置く。この食器はまた昼食の時に使うことになるだろう。男のひとり暮らしに何種類も食器は必要ない。鳴海はどうやってあんなにいくつもの食器を使い分けていたのだろうと不思議に思う。平皿、深皿、ちょっと浅めの丸い皿、正方形の皿と長方形の皿、形だけでもさまざまだ。これに材質、色柄が加わるともっとある。境には何をどう使ってよいのか判らない。自転車の部品であればどんなわずかな違いでもどこに使えばいいか一発で判るのに、鳴海がつくってくれていた料理の数々がどの皿に盛りつけられていたのか、まるで思いだせないのは情けない話だった。

店で飲む用にコーヒーをポットに移しかえていると頭上でベルが鳴った。

境の手がとまる。

不在の時に客にベルを鳴らしてもらおうというアイデアを出したのは鳴海だった。真帆がまだ赤ちゃんの頃、母親だけでは手が足りなくて境はしょっちゅう二階に呼ばれた。用事をすませる間見ていてほしい、泣きやまないのどうしよう、お風呂に入れるのを手伝って、等々。

ちょっとでも目を離すと危ない時期だから、と云うのが鳴海の口癖だった。はじめての子だから多少神経質になっていたのかもしれない。父親がすぐ近くで仕事をしているという安心感もあっただろう。境も自分の仕事を中断しては二階にあがっていった。またかよ、と口先ではぼやきながらもうれしさを隠しきれない様子で。そんな日々が続く中で出たアイデアだった。一階で客が押しボタンを押すと二階の天井でベルが鳴る仕組みになっている。確かに便利だな、と境は感心した。

ベルが鳴ってもすぐには動かない。
しばらくして遠慮がちにもう一度鳴った。

真帆が三歳くらいの頃か、店で遊ばせているとベルを鳴らしたがった。背の届く場所には置いていないのでむやみやたらと押すことはなかったが、今度は抱っこしろとせがまれる。仕方なく抱いてやわらかい身体を傾けてやると、真帆はきゃっきゃと笑いながら押しボタンを連打した。何度も押していると二階で家事をしていた鳴海がおりてきて、またあ、と大げさに顔をしかめる。その口もとはやっぱりほころんでいた。

幼稚園に通いはじめるようになると、帰ってきた合図代わりにベルを鳴らした。その頃には押していいのは三回までと云い聞かせていたので、真帆は毎日神妙な顔で「いち、にー、さん」と鳴海と一緒に数えながらボタンを押した。するとたいていその時間に休憩をとっていた境が二階からおりてきて、「おかえり」とふたりを出迎えるのだった。

じっと固まったまま、耳を澄ます。

鳴海は目を離さなかった筈だ。真帆の手をしっかり握り、いつものように時おり見つめあい、笑いあう。はずむような笑顔にあたたかな春の陽ざしがふり注ぐ。その場にいなかった境にも、その光景をありありと目に浮かべることができる。それでも運命の大きな波のうねりが何もかも根こそぎさらっていくことがあるのだと境は知ってしまった。知りたくはなかった、から、理解はしない。ただそれを見せつけられた自分がこの先の未来に存在するだけだ。自分にとっての永遠が続くかぎり。

ベルはもう、鳴らなかった。

諦めたようにタオルで手を拭い、境は階下におりていった。店の入り口付近で所在なさそうにスーツ姿の若い男が立っている。通勤途中のサラリーマンだろう。はじめての客だ。男は店の奥から人が出てきたのを見て、ほっとした表情を浮かべた。

「ああ、いらっしゃい」
「すみません、朝はやくに。どうも自転車がパンクしちゃったみたいで……」
「見れば判る」
「………」
こうして境自転車店の一日は過ぎていく。



<4>


ともかく下を向いて歩こう、と菜緒は決めた。
すれ違う人たちがみんな自分のことを指さして笑っている気がする。気のせいではない、実際くすくす笑う声がしたし、何あれ、という驚きと憐みが入りまじったような声だってちゃんと聞こえている。

耳をふさいでわあっと走り去りたくても、両手が使えないから無理だった。ハンドルを握る両手にぎゅっと力を入れる。悔しいような泣きたいような気持ちをこらえ、菜緒は制服のスカートのプリーツの裾が足の動きと一緒に揺れるのを見つめながら、顔をあげずに歩いた。

そのうち周囲の人の気配が消え、菜緒はうつむいていた顔をやっとあげることができた。家までまだずいぶんある。それにこんな自転車を押して帰ったら、心配性の母親が悲鳴をあげて中学校の担任にしゃべってしまうかもしれなかった。

それだけはなるべく避けたかった。そうでなくても今クラスのみんなはとても動揺している。自分だってそうだ、と菜緒は思う。だから新しい問題を起こしたり、そのことで一部の人たちの反感を買ったりすれば、自分の胸のうちで仮定のこの話が、いよいよほんものになってしまうのではないかと心配になったのだ。

まだそうと決まった訳じゃないんだからね。
心の中では強がっても、そうでないとするのなら他にどんな理由があるのかと問う声がする。
明日からどうしよう……。
何事もなかったように登校するしかない。それでみんなの反応を見る。怖いけれど、それぐらいしか思いつかなかった。

そうと決まればさしあたりこの自転車をどうするかだった。学校の自転車置き場には置いておけない。誰かに気づかれてしまうおそれがあったからだ。だからこうして出てきてしまったのだが、家に持っても帰れない。結局、どこかでこっそり直して帰るしかなさそうだ。学校近くの自転車店は先生や生徒たちに顔なじみで、やはり情報漏えいのおそれがあった。

情報漏えい、と近頃テレビで覚えたての単語を使うと、ますます重大な秘密を抱えている気分になる。あまり深刻に考えちゃいけないと菜緒は自分で自分を励ました。気持ちを切りかえて他の自転車店を探そうとした時だった。ちょうど視界にそれらしき店が飛び込んできたので菜穂ははや足で近寄った。外の明るさにくらべると店の中はうす暗くて、店員さんがいるのかどうか判らなかった。

辺境自転車店って、「へんきょう」って読むんだよね。
店の屋根にある看板を見あげてそんなどうでもいいことを考えているのは、はじめての店で入りにくいのと、この自転車を見て店員さんに笑われたら嫌だなという思いで、すぐに足を踏みいれるのをためらっている自分をごまかすためだった。
「ああ、いらっしゃい」

奥の暗がりから面倒くさそうに背の高い男の人が出てきてそう云った。無精ひげにぼさぼさ頭の若いおじさんだ。おじさんに若いをつけるのは間違っているのかもしれないけれど、お兄さんと呼ぶにははつらつとしていないというか清潔感がないし、ただのおじさんと呼ぶには菜緒の両親よりもだいぶ年下に感じたからだ。

「あの、自転車のサドルがほしいんですけど……」
だんだんと消え入りそうな声になってくる。

「どんなの?」
店主の若いおじさんはちらりと菜緒の自転車の運転席に目をやったが、何も触れずに話を続けた。

「茶色で、えっと、こんな形で……」
笑われなかったので安心して店の中へ自転車をとめ、菜緒は空中にサドルの形を指で描き、一生けんめい伝えようとした。

「さすがにそれじゃあ判らないな。お嬢さん、あんた、ちょっとこっちにきて自分で選んでよ」
「あ、はい」

店主の声に従って棚に並んだサドルを眺める。何種類もある中で、競技用の細長いものや高価な革製のサドルはぱっと見で除外できたが、あとは色が茶色というだけで決め手に欠ける。毎日通学で座っているというのに案外覚えていないものだな、と菜緒は思った。あれこれ迷っている様子を眺めていた店主が菜緒の自転車を指さし、訊ねてきた。

「もともとついていたのと同じのがほしいのか」
「そうです」
「まったく同じはないかもしれないなあ」
そう云ってあごに手をあてる。
「ここだととり寄せることもできないしな……」
「あの、いいんです。だいたい同じ感じだったら。誰かに見られた時に違うものだってばれなければ」

菜緒は焦って答えた。今すぐ交換してくれないのなら意味がない。それに同じものを探して他の自転車店をまわったりする余裕もなかった。これ以上知らない人に指をさされるのも耐えられない。あまり帰りが遅くなると、別の意味で心配した母親からあれこれ詮索されるかもしれなかった。

「それだとまあ、これかな」
おぼろげにイメージしていたのと近いサドルを店主が手にしたのを見て、菜緒は大きく頷いた。

「判った。じゃあ、これでいこう。直すのはすぐだから、そこの椅子にでも座って待っててくれ」
店主はそう云って、スチール製の丸椅子を指さした。

「お願いします」
ぺこりと頭をさげ、菜緒は椅子に腰かけた。

「ところでお嬢さん、これはどうする?」
新しいサドルを手に店主があごでしゃくってみせたのは、もとのサドルがあったフレームの筒の部分につっ込まれた、白い菊の花束だった……。

「捨てちゃってください、そんなの」
わずかに顔を歪めて背けながら菜緒は答える。恥ずかしさで頬がかあっと熱くなるのが自分でも判った。
「捨てるのか? そうか……」
そこで言葉を切ると、店主は無造作に花束を掴み、近くにあった空のバケツに、ぽん、と投げいれた。

「あの」
「何だ」
「捨てないんですか」
「花に罪はないからな」
短く答え、サドルをとりつける作業をはじめる。

菊の花なんて、ふつう家に飾ったりするものなのかな、と菜緒は首をかしげた。黙って下を向いた店主のぼさぼさ頭を見ていたら、だんだん「花を捨てる」と口にした自分がひどく悪者に思われているような気がしてきて、無性に悔しくなった。

「わたしだって、罪はない……と思います」
間を置いて云い返した菜緒のほうにちらりと視線をあげ、そうか、と店主は答えた。それから再びうつむくと、作業する手を休めずに訊いてきた。

「心あたりはないのか」
「ないです。けど……」
菜緒は一瞬云い淀む。頭の中では教室の萌乃の机に数日前から置かれた白い菊の花びんを思い浮かべていた。

「教室にも白い菊の花が置いてある席があって……。でもあの、それは担任の先生がやったことだから」
「担任?」
驚いて店主が問い返したので、菜緒は自分が誤解を招く説明をしたことに気がついた。けれども、そうだ、花のことを説明しようとすれば、萌乃についてしゃべらなければいけないのだと考えると、きゅっと胸のあたりが痛んだ。

「クラスメイトが事故で死んだんです。それで、その子の席に先生が花を飾ったんです」
「ああ。いじめじゃなかったってことか。それでどうしてあんたの自転車のサドルを盗んで同じ花が?」
「それは……わたしにもよく判りません」

菜緒は正直に答えた。このことにどういう意味があるのか、考えると頭が痛くなりそうだった。いじめじゃなかったと店主のおじさんは納得したみたいだけれど、それは微妙に違うかもしれない、と菜緒は心の中で反論した。担任が死者を悼んで花を置いた行為はもちろんいじめなどではない。だからといって萌乃がいじめられていなかったという証拠にはならないのだ。

萌乃は一部の女子たちに嫌われていた。それをいじめと断言してしまえば、担任を真似て自分にされたこの行為の意味がおそろしいものに思えてくる。

「次はお前だ、ってことなのかな」
ひとりごとのように呟くと、菜緒は丸椅子の上でうなだれた。

「その子、事故で死んだんだろう?」
「はい」
「だったら、そう悪いほうに考えなくてもいいんじゃないか」
「………」

おじさんは知らないから、そう云いかけそうになった。でもこんなことを見ず知らずの大人に話しても仕方ないことだと菜緒は口をつぐんだ。萌乃の死の原因を学校や親は単に事故と云うばかりでくわしく子どもたちに説明しなかった。お葬式も身内だけですませたいという家族の意向でクラスメイトは誰もいっていない。だから教室で誰ともなく、あれは事故ではなく自殺だったのではないかという噂がささやかれはじめてもおかしくはない状況だったと思う。それがただの憶測か、それとも真実をついているのか、どちらか判らないままに、萌乃にいじわるをしていた女子たちを筆頭にクラスメイトの胸はみなざわついていた。

そんな中、帰宅しようと自転車置き場に向かった菜緒の目に飛び込んできたのがこの自転車だった。サドルを盗んでそこに花を挿した意味はよく判らないが、今のこのタイミングでいたずらにしてはひどすぎると思った。

「まあ、事情は俺にはよく判らんが」
そう云って店主は立ちあがった。

「この先何があっても、お嬢さん、死ぬなよ」
菜緒の周囲に漂う重い空気に何か感じるものがあったのか、店主はそれ以上追及することはせず、端的に云った。

「死ぬなって、おじさん、人間いつか死にますよね」
だって萌乃は死んでしまった。こんな若さで同級生が死ぬなんて一度も考えたことなかったのに、ある日突然この世界から消えてしまった。嘘みたいだけど、ほんとうの話。そして萌乃は萌乃にしか判らないほんとうを抱えたまま、嘘みたいに消えたのだ。噂は嘘なのか、ほんとうなのか。菜緒の中で今、嘘とほんとうが混じりあい、境界が判らなくなっていた。

「そうだな、死ぬな。けど、親より先に死ぬな、頼む」
なぜかおじさんのほうが苦しそうな表情を浮かべたのが菜緒には印象に残った。

「えっと、はい、判りました」
そんな約束をしたところで人間どうなるか判らないし、今のところ菜緒としては死ぬつもりは毛頭ないのだけれど、店主のおじさんにそう云って安心させてあげたいような気になって素直に返事した。

「そうか、ありがとう」
どうして会ったばかりのおじさんに礼を云われるのか判らなくて、菜緒は口の中でもごもごと「いえ……」と小さく答えた。

すっかり直ったサドルを見て、これなら家に帰っても気づかれないだろうと安心する。お金を払って帰ろうとした菜緒に、店主はやや云いにくそうにこう切りだした。

「なあ、お嬢さん。頼まれついでにもうひとつお願いがあるんだが……」

変なお店だったなあ。
急いで家に向かってペダルをこぎながら菜緒は思った。変なのは店そのものではなく店主の若いおじさんなのだが、不思議と嫌な感じはしなかった。口数は少ないしぶっきらぼうだけど、会ったばかりの自分のことを本気で心配してくれているのが伝わってきたからだった。

最後の頼まれごとも意味不明で、自転車についた部品をいくつか無料で新品と交換させてくれないかというものだった。見て判るようなことはしない、と断言して、交換したい部品の名前も教えてはくれたけれど、そんな専門用語が菜緒に理解できる筈もなく、云われるまま好きにしてくださいと答えた。自転車の調子自体は特に悪いとも思っていなかったので、ただでわざわざ新しくしてくれるなんてもの好きなおじさんだなあ、というのが率直な感想だった。

しばらく走っているうちに、菜緒は自分が家に向かっているのではないことに気づいた。そんな莫迦な、と思うのだが、なぜか家から遠ざかり、学校に向かっている。ぼんやりして間違えたというレベルの問題じゃなかった。焦って方向を変え、再び逆の道をいくと、気づかないまままた同じ道にもどった。

富士の樹海みたい。
そこでは方位磁石が狂うと聞く。どんどん道に迷って出られない自殺の名所だ。そんなことを考えていたら菜緒は不吉な予感に襲われた。

わたしまだ死にたくないよ。
落ち着いて、よく考えるのだ。ここは樹海じゃないし、家と学校とを毎日往復しているよく知った道じゃないの。ほんとうと嘘が判らなくなったからといって、いきと帰りの道を間違える訳がない。それにあのおじさんと約束したんだから、死なないって。

そう自分に云い聞かせるのだが、何度まわりの景色を確認しながら進んでも、学校のある方向にいつの間にか自転車ごと向いている。菜緒は泣きそうだった。いったい自分に何が起こったのか全然判らないうえに、家にもどれそうな気がしない。

こうなったらもう、学校にいくしかない。
一度そこまでいけば、もしかしたら家に帰れるのではないかと菜緒は考えた。たいした根拠がある訳ではなく、何かの力がそうしたがっていて、学校までいけば気がすんで解放してくれるのではないかと淡い期待を抱いたのだった。

いったん学校にもどることを決意すると、自転車は何ごともなかったようにすいすい進んだ。まわりの景色が反転するようなおかしな現象も起こらない。

どこまでいけばいいんだろう。
菜緒は一度自転車を降り、校舎の中まで入っていくべきかどうか悩んだ。ひとまず自転車置き場に自転車をとめようと押していく。すると、自転車置き場の入り口でうろうろと中をうかがっている怪しい人影を発見した。

マタギだ。
今日はギターを背中に担いでいなかったが、薄茶色の爆発したような髪をうしろでひとつにくくっている髪型ですぐに判った。マタギというのは彼女のあだ名で、本名は牧田美冬という。マキタとマタギ。音が似ているのと、軽音楽部の彼女がいつも背中にギターを背負っている姿が猟銃を背中に担いでいる狩人のマタギを連想させるから、というのが理由らしい。菜緒やほとんどの生徒たちはほんもののマタギをよく知らなかったが、テレビか何かでその存在を知ったある男子生徒がてきとうなイメージだけでそんなことを云いだしたのが広まってついたあだ名だった。

何しているんだろう。
明らかに挙動不審な動きを見せるマタギは、ふだんからわりとそういう感じだった。人と目を合わせず、長い前髪の下でおどおどと視線をそらす。話しかけても小さな声でどもってしまうのでよく聞きとれない。極度の人見知りなのか、それとも単にひとりの世界にいるのが好きなのか、誰とも交わろうとしなかった。周囲の空気を読めない彼女はみんなから「理解不能な変な人」というレッテルを貼られていた。

誰かを探しているのかな、と菜緒は思った。けれども自転車置き場の反対側の入り口から別の生徒が入ってくると、慌てたように身を隠した。まるで自転車泥棒みたいな動きだった。

「あ」
隠れた拍子にマタギが何か握っているのが見えた。それは白い菊の花束だった。どう見ても自分の自転車に挿しこまれていたものと同じもののように見えるのだが……。

まさか、時間が逆もどりしてる?
そんなことがあるだろうか。菜緒は呆然としつつ、マタギから目が離せなくなった。さっきの生徒が自転車にのって走り去ると、マタギはまた中を覗き込み、それから今度は自転車置き場に入っていって並んだ自転車のうしろをうろつきはじめた。クラスごとに自転車を置く位置は決められている。マタギがいるのは菜緒のクラスのエリアだった。たぶん、自転車のうしろに貼られた持ち主の名前が記されたシールを確認していると思われた。いよいよもう間違いない気がした。
静かに菜緒は近づいていく。そして入り口のところで軽く息を吸い、少し強い調子で訊ねた。

「誰の自転車を探してるの?」
この声に対し、マタギは予想以上に驚いたようだった。わわわ、と口を開けるともっていた花束を落っことした。

「それ、どうするつもり?」
どうしても責めるような口調になってしまうのは仕方のないことだった。マタギが何を考えているか判らないぶん、菜緒も内心では怖いのだ。

「こ、こ、これは、あの……」
焦るあまり、いつも以上にどもりながらマタギは地面に落ちた花束を拾いあげた。おたおたと今さらながら背中に隠そうとする彼女の行動にいらつきを覚える。

「判ってるのよ、わたしの自転車を探してたってことは」
菜緒が一歩迫ると、マタギはおびえたようにこくこくと頷いた。これでは傍から見ると菜緒がマタギをいじめているようにしか見えないだろう。そんなのはごめんだ、と菜緒は強く思う。わたしは悪くないのに、悪いのはマタギなんだから、と。

「ご、ごめんなさい」
小さく謝るマタギに「だから、どうして……」と云いかけた菜緒がとまる。どうして自転車のサドルを盗んで花なんか挿したのかと責めても無駄なのだとはたと気づいたのだ。今はまだマタギは何もしていない、ただ菜緒の自転車を探していただけではないか。これはちょっと冷静になって訊きかたを考えなければいけないと思い直す。

「わたしに何か用だった?」
おだやかに訊ねると、マタギはせわしなく数回まばたきをし、それからふうっと小さく息を吐いた。

「花束を、あ、あずけたくて。で、でも、なかなかこなかったから」
「ふうん、で?」
「だったら、じ、自転車のかご、に、入れて帰ろうとお、思って」
「わたしの自転車、かごないけど」

そうなのだ、菜緒の自転車にはかごがない。その代わりまん中に大きなライトがついていて、おしゃれでかわいいからとそのデザインが気に入り、入学祝いに買ってもらったのだ。

「え」
マタギは菜緒の言葉に思わずフリーズする。長い前髪のすき間から、じっと自転車を観察しているのに気づくと、嫌な予感がしてきた。

「もしかして今、かごじゃない置き場所を考えてる?」
「あ、うん」
「サドルを抜いて、そこに挿そうとか?」
「ど、どうして判ったの?」
純粋に驚きの表情を浮かべるマタギを見て、菜緒は脱力してその場に座り込みそうになった。

「マタギって、なんでそうなのよ」
「え」
「何も云わずにそんなことしたら、相手が気味悪がるって思わない?」
「そ、そうかな」
まるで判っていない様子のマタギを見て、菜緒は怒る気力も失せてしまった。それよりまずは自分に花束をあずけようとした意図を訊ねなくてはいけない。

「まあ、いいや。でもわたしに花をあずけようとした理由は? 白い菊なんて不吉な花だよね」
「で、でで、も、先生がしてたから、それ、でで、いいのかなって。あの、き、黄原さんにあげてほしかった、の。わ、わたし、黄原さんち、し、知らないから」
「萌乃の家に? どうしてわたしが?」

同じクラスにいても、菜緒と萌乃はほとんどしゃべったことはなかった筈だ。それなのに仏前に供える花を自分にあずけようとするマタギの思考がまったく読めなかった。

「だ、だって……ふたり、はさ、しょ、小学校の時は、仲よかったん、でしょ」
ずどん。
心臓を一発で撃ちぬかれた気分だった。

「……これから一緒にいこうか」
やっとの思いでそう口にすると、マタギは菜緒の隠しきれない動揺に気づく様子もなく、「うん」と素直に答えて近くの木の根もとに立てかけていたギターをとりに走った。そのうしろ姿をぼんやり眺めながら菜緒は思う。

わたしだけじゃ、なかったんだけどな……。
萌乃と小学校時代仲よかったのは自分だけではなかったと云いたかった。けれどもマタギに撃ちぬかれた瀕死の心臓は、もう菜緒のごまかしを許してはくれなかった。

もどってきたマタギと自転車を押しながら並んで歩く。
小学生の頃、萌乃は女子みんなのアイドルだった。歌やダンスがうまく、本人も本気でアイドルを目指していると云っていた。実際萌乃はかわいかったから、誰もその夢を笑ったりはしなかった。明るくて誰からも好かれていた萌乃を中心にクラスの女子みんなでアイドルグループのふりつけを覚えて踊ったこともある。卒業も近かったあの日のできごとは菜緒の胸にも楽しかった思い出として刻まれている。

中学生になったら、オーディションを受けにいくと萌乃は云っていた。それはみんなで覚えたあのアイドルたちのいるグループで、萌乃はそのグループのことが大好きだった。さすがに簡単に合格できるとは誰も考えていなかったけれど、あの頃はみんなで萌乃のことを心から応援していたのだ。

中学校はみんなばらばらとなり、菜緒は萌乃と同じ学校だったがクラスは違っていた。菜緒はそこで違う小学校からきた子たちと仲よくなった。しばらくして、萌乃がクラスの女子から嫌われて孤立しているらしい噂を聞いた。同じ小学校出身の子が云うには、萌乃のクラスにいるリーダー格の女子が同じくアイドルを目指していて書類選考の段階でオーディションに落ちたらしいということだった。そのオーディションとは萌乃が憧れていたあのアイドルグループのことだった。当然萌乃も応募していた。それで、一次だか二次だか途中まで残ったらしかった。結局そこどまりで合格はできなかったようだけれど、それ以来、リーダー格の女子が煽動して、クラスの女子たちが調子にのってると萌乃につらくあたるようになったのだという。

書類選考で落とされたのは自分の容姿のせいなのだからやつあたりもいいところだが、歌やダンスといった実力で勝負できなかったというのがその子にすればそうとう堪えたのだろう。菜緒も廊下でその子を見かけたことがある。云っては悪いけど、萌乃に比べれば見劣りするのは否めなかった。だからこそ、もって生まれたどうしようもない部分で負けた悔しさと嫉妬心が萌乃に向かってしまったのだと菜緒は理解した。そしてまた、その子の気持ちが判らないでもないと理解できてしまう自分に愕然としたのだ。

二年生になって、菜緒は萌乃と一緒のクラスになった。いじわるをしていたリーダー格の子は別のクラスになったけれど、その子の仲間は数人いて、やはり萌乃に対する態度は冷たかった。菜緒は萌乃に積極的に話しかけようとしなかったし、萌乃のほうも話しかけてはこなかった。一年生の時から仲よかった子と偶然同じクラスになれた安心感もあって、菜緒はそのことをあまり気にしないようにした。

だってあれは小学校の時の話で、わたしだけ特別仲がよかった訳じゃない、萌乃はみんなと楽しくしてただけなんだから。案外、わたしのことなんか忘れちゃってるんじゃないかな。

つい数年前のことがひどく昔に思えて、そんな風に考えているうちにもともと自分はたいして萌乃と仲よくはなかったのだと菜緒は信じ込むようになった。
そこに、ずどん、ときた。

「あ、こ、ここ」
萌乃の家のある高台の団地の入り口あたりで、マタギが急に小さな公園を指さした。ここでひとりでいる萌乃の姿をよく見かけたという。学校からずっと黙ってきてしまったので、マタギと萌乃の接点を訊き忘れていたことに菜緒は今さらながら気がついた。

「マタギんちもこの辺なの?」
「あ、あたしは、あっち」
指さしたのは道なりに団地へとのぼる坂道の続きではなく、公園を過ぎた交差点で左に折れるほうの道だった。下校途中にマタギは萌乃にたまたま出くわして接点をもつようになったということだろう。

「き、黄原さん、いっ、つも、こ、ここで歌、うたってた」
「ひとりで?」
「うん」

街を一望できる見晴らしのよい公園の柵に向かって歌う萌乃の背後から、マタギはギターで伴奏をつけたらしい。驚いて萌乃がふり向き、マタギは思わず逃げようとした。そこを呼びとめられ、ぽつりぽつりと話をした。小学校時代に菜緒と仲がよかったという話もその時聞いたようだ。そんなことが何度かあって、萌乃とマタギは仲よくなった。学校で知らんぷりをしていたのは、萌乃にそのほうがいいと云われたからだった。自分と仲よくしてるところをあの子たちに見られたら、マタギの立場が今よりもっと悪くなるだろうと心配してのことだった。

萌乃がわたしに話しかけてこなかったのも、きっと同じ理由なんだろう。
胸が苦しかった。
萌乃がそういう子だって頭では判っていた筈なのに、わたしはわざと自分に別の理由を刷り込んで忘れようとしていたんだ。

「う、う、歌が……」
「え?」
「聞こえない? き、黄原さんの、声」
「………っ」
空耳ではない、確かに聞こえてくる。なつかしい萌乃の澄んだ歌声だった。公園の中からだ。動きはマタギのほうがはやかった。慌てて菜緒もあとを追う。マタギの背中でギターケースがかたかたと揺れている。それを見ながら必死で走った。

マタギが立ちどまり、菜緒は追い抜いた。その先に。
うしろ姿の萌乃がいた。

声と同じように半分透きとおった身体で、萌乃は公園の柵に向かってうたっていた。あのアイドルグループの歌だった。みんなで一生けんめい歌詞とふりつけを覚えて踊ったあの曲だ。ハイテンポな曲を、萌乃はゆっくりと空にしみ渡らせるようにうたいあげていた。たったひとりでうたうその歌のなんとさびしそうなことか。

「萌乃っ!」
菜緒は叫んだ。が、萌乃はふり返らない。

「萌乃、ほんとうはどうして死んだの? ほんとうはわたしのことどう思ってたの? ほんとうは……萌乃のほんとうを教えてよ、お願いだから……」

菜緒はいつの間にか泣いていた。けれども萌乃は前を見つめたまま、うたい続けているだけだった。わたしの言葉はもう聞こえないのだ、と菜緒は悟った。

ボロン、とギターの音がした。
マタギがいつものように萌乃の歌にあわせて伴奏をはじめたのだ。
花に罪はない、マタギに罪はない、萌乃に罪はない。
罪があったのはわたしだった。自分を嘘で固めてほんとうを知ろうとしなかった。萌乃の嘘とほんとうが何だったのか、菜緒には永遠に判らない。だけど今、菜緒は自分のほんとうの正体が何なのかはっきりと判った。その罪の重さ。

涙をぬぐい、空を見あげる。
もう二度と届かない友だちの声に重ねるように、菜緒は震える唇で静かにうたいはじめた。



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mugiko
広島生まれの広島育ち。ありがたいことに片島麦子の名前で本を何冊か出していただいています。
『銀杏アパート』『想いであずかり処にじや質店』など。
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「デザイン画コンテスト」に関してのお知らせ- MAI TAKAHASHI -

現在開催中のファッションコンペに関してのお知らせです!「デザイン画コンテスト」の募集開催期間を、10月18日(日)から、11月3日(火)ま...
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クラウドファンディングサービス開始!!- SEIYA SAKAGUCHI -

「BUNCA」の統括ディレクター阪口(♂)から皆様へクラウドファンディングサービス開始のお知らせ。最重要important(最重要)な内容になっています!

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