第4回 BUNCAコンペ小説部門入賞作品「…and I’m on the run」後編- 浅野 葛(あさのかつら) -

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先日公開させて頂いた第4回、BUNCA Competition「小説部門」で入賞された浅野葛さんの入賞作品「…and I'm on the run」待望の後編が公開となりました!物語の結末を是非ご覧ください!




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次の日の夜になって、きみは謝罪の意を記したメッセージを僕によこした。初対面にも関わらず、酔っ払って非礼な真似を働き申し訳なかった……云々。きみは根本的にはとても律儀で、頑固なひとなのだ。それがまたおかしくてこらえきれず、僕は電車の中で笑い声を漏らしてしまった。僕は、そんなこと気にしなくてもいい、ということと、そして、きみの物語に取り組みたい、という旨を返信した。電車は地下を出て、まもなく多摩川の夜の景色を窓辺に取り込んだ。

以来、きみはひんぱんに僕の家へやってきた。食材や酒、雑誌、小説など差し入れをなにかにつけ携えて。これはとてもありがたかった。ひとりの生活をさみしいと感じたことはほとんどないが、それでもきみと顔を突きあわせて話をし、ともに食事を摂る日々のなかで生活にもメリハリが生まれてきた。休みの前などには一服盛ってやる。そうするときみは広島弁まじりで愉快な話をいくつもしてくれる。きみに付きあううち、僕も日本酒の好さに目覚めていった。

どんなに酔いが回っていても、24時を回るときみは立ち上がって帰路につく。泊まっていけばいいのに、という僕の制止も振り切って。僕はしぶしぶ身支度をしてきみを送る。二子玉川から、駅を越え、川沿いまで。まっ暗やみに川の音が聞こえるのが怖いんだ、ときみは言った。平衡感覚がおかしくなって、川底に引きずりこまれてしまいそうなんだ、と。だから僕は、いつも橋の真ん中あたりまで一緒に歩いた。

左手には留置された電車があり、駅の青白い灯りを鈍く帯びて夜闇に浮き上がっていた。この時間になると橋を渡る人影は少なくさみしい。そこへ川の流れる音が飛び込んでくる。都会の淀んだ川のそれじゃない、切れ間なく低音が轟く。数分まえまでビルの隙間を歩いていたということが嘘みたいに思えた。きみの言うことも、もっともだった。

一歩一歩と、その音が遠ざかり、やがて消えると、きみは僕に手を振って自分の街へ歩いて行く。たぶんそこらへんが東京と神奈川の都県境だろう。遠く上流の街灯がマッチ棒のように見えた。

きみは少しずつ話してくれた。物語にしたいという景色のことを。きみは大学のころからいまの街に住んでいて、ときどき河原を散歩した。そのときの記憶がいまでも印象深く刻まれているのだという。

ホームレスみたいなおじさんがいてね、でも、正確にはホームレスじゃないんと。自主的に河原で野宿してるんだって言ってた。近くに持ち家もあんのにね。日がな一日、釣りばっかしてるわけよ、そのひと。市販の釣り具に頼るの文明に毒されてる、むきだしの野生にオレは生きるんだとか言って手づくりの竿と糸でね。案の定、ぜんぜん釣れないんだけどたまにマヌケな魚が針にかかって、オーバーなくらいはしゃいでて可愛かったな。きみはしみじみと噛みしめるように言った。

「なんか、あの絵面が忘れられないんだ。たまにお弁当つくっていって、一緒に食べたりしてね。いまにして思うとなんだか浮世ばなれした、へんてこな日々だったな」

僕が陸上へ魂を燃やしたのと時期は変わらず、そんな別の毎日が同じ空の下にあった。しばらくパソコンの前で腕組みする日が続いたけれど、なんとも言えない不思議な心もちでぽつぽつと打ちこんでいるうちに、つたない言葉が物語の顔をして少しずつ走りはじめた。多摩川のほとり、青い空、川の流れに糸をたらす“おじさん”、その背中を飼いネコのように座って見守るきみ、そんな情景が。

ラフをきみに見せたところ、赤が所狭しとついて返ってきた。自分の原案ということにいっさい甘えはなく(だからこそ余計に厳しいのかもしれないが)わかりづらかったり、あまり効果的ではない表現やシーンはフィクションだと割り切って捨てるべきだと言った。その通りだと思うことは素直に受け取り、どうしても譲れない箇所は意図をじっくり説明した。昂ぶっていて荒い口調になっていたかもしれないが、きみは臆することもなく、「なるほど」と相づちをいれながらただ粛々と僕の話を聞いてくれた。その上で、よくよく再考することを促された。きみはさすが編集者の顔をしていた。

話は、空いたまま残ったラストシーンに及んだ。やがて大学を出て、おじさんとの日々に別れを告げるきみ。事実だけを重ねてもそれは単なる自分史だ、作品として成立しない。この物語を、この文章をもってなにを描きたいのか、伝えたいのか。僕は表層をなぞっているだけで、まだ、物語の本質、きみのこころの深いところへ触れられずにいた。

「センセイ。話はすごく変わるんだけど」
討論のあと、テーブルにひじをついて頭を抱える僕にきみは耳打ちした。
「なんか、いろいろ、タメてません?」
「変わりすぎだろ、話」
僕がおどけると、きみは張り詰めた表情を緩めて、愛嬌よく声を弾ませた。

「センセイって、いっつも根詰めてそうなんだもん。たまにはヌいとかないとからだにもこころにも毒ですよ。書けるもんも書けないってもんですよ」
きみは、たまにフェラチオをしてくれた。

あるとき一緒に飲んだ酒があまりにも口当たりよく、僕もきみと同じペースで気持ちよく行ってしまい、不覚にも理性をなくすほど酔っ払った。僕たちはたいがい居間の畳に腰を据えて飲んでいて、姿勢を直したときに右の手のひらがきみの左手の甲に当たったのだ。きみはすぐに手を引っこめたけれど、僕はその上に自分の手を重ねて、なで回した。僕はきみが欲しくてたまらなかった。

きみもそうとう酔っ払っていたけれど、雰囲気に絆されてくれはしなかった。けもののような充血した目を向ける僕に、きみは、じゃあ口でしたげるよ、と明るい声で言った。

ぼくが大手の編集者で、あなたの担当だったら万札でも渡してこれでヌいてもらってこい、とかやるんでしょうけど、ときみは妖しい目で僕のをしごいた。こんなオカマでも口は口さ、性別はない。ガマンして。きみの言葉にはどこかとげがあって、乾いたこころにチクチクと刺さった。けれど、ぬめぬめとした固い舌に巻かれ、温い唾液に包まれてしまうと、そんなことはもうどうでもよくなってしまう。これほど男という性を憎らしく思ったことはない。

このときは、すこし様相が違った。きみはイスに腰掛けた僕の股の間で立て膝になり、ジーンズの上からなで回していた。はじめる様子もなく長い時間そうしていたので、無理しなくてもいい、と声をかけようとしたところに、きみは僕を見上げた。

ねえ、センセイ。ぼくを抱いてみない?
「もう気がついたら再来週なんだよね、入院。最後にいいネタ提供できるかな、って思って。おんなじのついてる人間とセックスする機会なんてそうそうないでしょ」
きみは僕のシャツの裾を、小さく引いた。
「……なんて、本当はぼくがしたいだけ。いよいよこのからだともお別れだから、センセイになら見せてもいいのかな、っていうか、見ておいて欲しいって、思ったの」

僕に断る理由はなかった。寝室に連れて行こうとしたら、きみは力強く僕の手を払いのけて、両腕でぎゅっと自分のからだを抱えるふりをした。いろいろ準備が必要なんです、これでも女なんだから。きみはぎゅっと目をつむって、舌を出した。

週末、日曜日。僕たちは溝の口で待ち合わせて田園都市線を下った。スマートフォンで周辺のラブホテルを調べて適当な駅に降りた。きみは珍しくフェミニンな装いをしていた。空を染料にしてそのまま生地にしたような水色のシャツワンピース。口紅を差しているのも新鮮だった。“ごはんのあと化粧直すのが、ザ・女っていう感じがしてイヤ”などと、ふだんはうそぶいているのに。

電車の中できみは僕の腕に抱きついた。ずいぶん大胆なことをするな、と驚いていたら、こんな休日にさ、へんに距離があったらどういう関係って思われるでしょ、ときみはほおをふくらませた。客室は午後の陽射しに満ちていた。車窓も水彩画のように淡く、やさしい色をしていた。フツーの恋人同士、ときみがつぶやいた。そういう風に見えてたら、いいんですけどねえ。

部屋に入ってしばらくアダルトビデオを観ながら女優の演技やカメラワークにあれこれケチつけたりしていたけれど、一緒にベッドへ横たわるとベージュのつややかなくちびるが間近にあって、すぐにスイッチが入った。ゆびさきで擦り、舌を割り入れて絡ませる。

お互いむさぼり合ううちに少しずつ衣服を取り払っていった。首すじから鎖骨と舌を這わせ、ブラジャーを雑に持ち上げる。そうして僕はきみの乳を弄んだ。ふくらんだ、というよりは、腫れた、という方に近い、いびつなかたち。おそらくホルモン剤によるものだろう。少年と少女がひとつのからだに同居しているような妖艶さを僕は感じた 先端を舌で転がしてやるときみの呼吸は浅くなって、すらりとした腹筋が別個のいきもののように忙しく浮き沈みする。切ない鳴き声が僕をかき立てた。

きみは最後の最後、ショーツを脱ぐのをためらっていたけれど、お尻を山なりになでながらなしくずしに剥ぎ取った。その二つの山の谷底にある固く閉ざした穴へローションを塗りつける。きみは、きれいにしてるから大丈夫、と言った。人差し指をいれると柔いひだが吸い付いた。内側をゆっくりとほぐす。

僕はきみを侵す。そういうことをするための器官ではないことは知っている。それでもゆいいつ、きみの内側を知る道しるべだから。きみは僕の首に両腕でしがみつきながら、ふだんからは想像できないあまく詰まった涙声で“しんじ”と僕を呼んだ。体熱に醸されて、熟れた果実のにおいが薫る。僕が顔をぐっと寄せると、きみは“すき”とささやいた。

僕はきみの両の手首を乱暴にはがして、シーツへ力いっぱい押さえつけた。やさしくできなくて、ごめん。まぶたを強く閉めてこころの裡できみに謝るも、堰を切ったようにあふれ出るいとおしさを抑えることができず、そのやわらかい肌へ腰を打ちつけた。きみはからだをしならせて僕の欲望を受け容れた。吐息はどんどん荒く、あまくなる。きみの小さなペニスは、持ち主の意思が介在している風もなくぴんと立ったり、ときどき横に振れてみたり、ネコのしっぽみたいだと思った。きみはきっと大嫌いだと言うであろう自分自身さえ、僕には愛くるしく、映った。

きみの指さきがもどかしげに僕の手のひらを握りかえした。その蕩けた目から涙があふれてほの紅いほおをぼろぼろと伝う。僕はきみを抱き寄せてすき間なくからだをくっつける。胸と胸、腹と腹、くちびるとくちびる。汗で滑るたび剥がれないようきつく腕へ力を込めて、きみの背中を抱き直した。

こわい、切ない、うれしい、かなしい、いとおしい……。そんな感情が混じらず、明確な層にもならず、胸に満ちる。経験が少なすぎて「恋」と呼ぶにふさわしいものかもわからない。でもこれがそうではないとしたら、いったいなにをもって「恋」と呼べるのか。そんな心強さが自然と生まれた。僕はきみのからだに自らの精を注ぐ。溢れんばかりに。

すっかり身支度を調えると、きみは、気持ち悪いこと言うてサーセンでした、とわざとらしくベッドの上で土下座のふりをした。してる最中ってものすごく昂ぶって、ハズいこと言ってしまうことあるじゃん。そんぐらい振り切っちゃった方が気持ちいいし。だから気にしないでよ、あんな言葉。

「ぜんぶ、うそか」
けらけら笑うきみに僕は苛立ちを隠せずとげとげしい態度をぶつけてしまった。
「ずいぶん無神経なこと言うんだな。自分の痛みには敏感なくせに」
すっかり自分を離れていってしまって、ひどい言葉だとあきれた。後悔で肌がすうと冷えていくのを感じた。でも、今さらなかったことにはできない。僕はきみと目を合わせられなかった。

うそじゃないよ。きみは小さな声で言った。ぼやけた視界の端に、きみの強いまなざしを感じる。きみはずっと僕を見ていたけれど、頑なに目を合わせようとしない幼稚な僕の態度に、やがて顔をうつむけたのがわかった。

「はじめて飲みに行った日にさ、センセイが“あんなに軽くあなたのアイデンティティが踏みにじられていいはずはない”って言ってくれたでしょ。あれはカッコよかったな。だって、別にわざわざ声かける必要はなかったじゃない、バーですれ違った行きずりの人間ごときにさ。ぼくなんて、センセイの顔もろくに覚えてなかったんだよ?」

僕は恐る恐る、きみに焦点を合わせた。そこへきみが顔を上げて、出会い頭に目が合った。きみは目を細めると、僕の胸へ静かにひたいを沈めた。そして、心臓へ直接語りかけるようにささやいた。

「憧れた。ぼくはさ、意にそまんことされても笑ってやり過ごしちゃうからさ、あんな風に堂々とできるってすごいなあ、って思った。なにより、うれしかったんだ。敵だらけだと思ってたこの世界に、味方だっているって、身を張って示してくれたことが」
僕はきみの頭を抱き、そのかたちに沿って髪を何度もなでた。きみもそれに応じて僕の胸に頭をすりつけた。

「だけど、ぼくはセンセイを幸せにはしてあげらない。ぼくができるのは結局、まねごとだけ。エッチしたって妊娠するわけじゃない。あなたの未来を奪う権利はぼくにはないよ。家族だって悲しむに決まってる」
きみは僕の手を持ち上げて僕の胸からそっと離れると、頭を小さく振って前髪を払った。

「あのおじさんのことがいまでも残ってるのは、きっと未来の自分を重ねてたからなんだろうな。なにも生むことはできない。期待するのも、されるのも疲れる。そうやって逃げついた川のほとりで釣りばっかしてる。彼はそのときなんか少しだけ許された気がしたんだろうね。自由で、身軽で。いまにしてみれば、よくわかる」

耳をすませば、他の部屋で行われている情事の音がかすかに聞こえた。きみも僕もなにも言わない。孤独だけが部屋に充満している。

「ねえ、センセイ。でもあなたは、ぼくとは違う」
きみが、この沈黙に荒く切れ目を入れた。
「いろいろぶしつけに意見を述べたけど、あなたにしか表現できない世界が原稿の上に広がってた。いまは停滞しててもじきに風は吹く。夜は、朝になる」
そういうものだよ、ときみは微笑んだ。
「これはあなたが人生の夜に見た悪夢みたいなものなんです。いつかはネタのひとつになります。そういえば昔、うすぎたないオカマにつきまとわれとったなあ、なにを血迷うたかそいつを抱いたっけなあって思い返して笑えばそれでいいんです。インタビューでおもしろおかしく話してくれればぼくは本望です」

きみは僕の右手を取って、その甲に口づけをした。深く、深く。何度もついばみ舌先を尖らせた。僕の皮膚を突き破り、自らの唾液を血管まで浸透させようとしているみたいに。

「輝かしい未来が待っとるんよ」
ようやくきみは顔を上げた。
「あなたにならどんだけ嗤われても、ええよ。ぼくはそれでかまわん」
紅いまぶたの内側で潤む瞳が、僕を射抜く。その力強さに、ただうろたえた。備え付けの電話のベルが鳴って、終わりの予感は確かなかたちへと変わった。きみの、ふるえるくちびるがやがてふっと、ゆるんだ。

行きとは真逆で帰りはなにも話さなかった。最寄りで降りるとき、きみは一度、僕を振り返ってはにかんだ。電車は走り出して鉄をきしませながら夕闇の多摩川を渡っていった。
揺れる車内、左の人差し指で右手の甲をなぞる。きみの口紅が染みついてじっとりしていた。砂金のように目の細かいラメが表皮のすき間へ入り、手首を傾けるたびちらついた。

きみの放った「未来」という言葉が、なににも溶けず、僕の胸に残った。

茶色いトラック、抜けるような青空、強い日射し。あのとき思い描いた未来に僕はいない。確かにあった地面の熱も、日焼け止めの酸い匂いも、すべてが宇宙の彼方ほどに遠い。

僕はいずれこの日々を、なにものにもなれずあがいていた時代に見た、いっときの夢だと片付けるようになるのだろうか。ここにある、もてあますほどの愛情もいつかは疎ましいとすら感じるのだろうか。 あまりにも、さみし過ぎやしないか。

でも、そうなのだとしたら、いま、できることはなんだろう、と考えたときに、僕には僕の言葉を書き連ねること、それを文章というかたちで残すことしか思いつかなかった。伝えたいことを、愛を、そのすべてを詰めて。

僕は祈るようにキーボードを叩いた。夜も昼も。そしてすべてが埋まった。ほうほうのていで台所に行き、水を飲む。すりガラスのむこうで夜闇が薄くむらさきににじんでいた。出勤日だということもすっかり忘れて眠りこけていたところに、バイト先のリーダーから着信があり叩き起こされた。こってりと叱られたけれど、ほとんどうわごとのように、僕を通り抜けて行った。万年床にあぐらをかきながら、ぼやけた頭の片隅で、バックれた予備校生のことを考えた。結局、あれから一度も出勤せず、彼は解雇となった。彼が何を思って消えたのかはわからない。どこかで、元気にやっているのだろうか、とほんの少しだけ、僕は思った。

その夜、きみがやってきて、原稿に目を通した。ダイニングテーブルの上、僕は緊張した心もちできみと向かい合わせに座っていた。きみが大きく深呼吸をしたあと原稿を置いて、こんな素敵な物語にしてくれてありがとう、と声を抑えて笑った。それが本心から出た言葉かどうかはわからない。けれど、肩に入った力が抜けて、こころに火が点るようなあたたかさを感じた。

いまでも、やっぱりこれは小説という体を借りたただの手紙だったのではないかと思う。
それから僕たちはささやかに祝杯をあげた。30枚そこそこの短編、どうする当てもない作品が書き上がっただけで、胸張れることなどなにひとつない。けれど、ずっしりとした手ごたえがあった。進められなかった長編にもう一度チャレンジする気概も生まれた。

「センセイと出会えて、本当によかった、って思ってるんだよ」
きみは透明な酒の入ったコップを揺らした。
「一生、大事にする。センセイにもらったもの、ぜんぶ」
きみは頬を赤らめて、笑った。もう僕とのことを、過去のこととして片付けようとしている、僕は苦虫をかみつぶすように、コップのなかの酒をぐっとあおる。

きみはなんだかとても疲れていたようで、いつもの半分も飲まないうちに眠りこけてしまった。入院のための荷詰めと退職の引き継ぎで忙しくしていたことを知っている。その一方でこの家に足繁く通い、僕の作品づくりに付き合ってくれていたのだ。くるんと丸まって畳へ横たわるかたわらに僕は足をくずし、きみの垂れた前髪を耳に掛けて、寝顔を眺めた。それから立ち上がってさびついた窓を開けた。6月の半ば。涼しさのなかに含んだかすかな湿り気が、夏に近づきつつあることを感じさせる。

26時近くなって、きみはようやくねぼけ眼をこすりだした。スマートフォンで時間を確認するや慌てたきみが、なんで起こしてくれなかったのさと僕を咎める。そんなの決まってる。きみを帰したくなかったからだ。

真夜中の二子玉川を僕たちは歩いていく。いつもどおり、隘路を抜けて、坂を下って。終電もとうに去ったあとの街は、いつもに増して静まりかえっていた。谷底から空を見上げて、僕は想像した。何年か先のことを。僕は小説家としてデビューしているだろうか、それともいまだバイト暮らしをしているだろうか。しかめっ面をしてホームの端で電車を待っているのだろうか。

きみは、どうしてる?

「なあ、競争しないか? 橋の向こうまで」
駅に差し掛かって、僕は前を歩くきみの背中に声を投げた。
「はあ? なんで?」
きみが振り返る。
「荷物とか、どうするのさ」
「コインロッカーにでも突っ込んどけばいい」
僕は目の前の道を指さした。
「前から思ってたけど気持ちのいい直線だろ、ここ」
渋い顔をしているきみに、僕は耳打ちする。
「負けた方が、勝った方の欲しいものをプレゼントするっていうの、どうだ。カネでもモノでも、用意できるものならなんでもいい」
「いいじゃん、おもしろい。やろうよ」
きみは自分の中で合点がいったように柏手を打った。

律儀で、頑固で、けれど同時に愉快でノリのいいひとでもある。そして鈍感だ。僕がどういう風にきみを見ているかなどと、想像すらしないだろう。きみはくらやみを見すぎて、くらやみの側が見つめかえすことだってあると、気づきもしない。

ハンデつけてやる、30秒。駅前の広場でからだをほぐしながら、僕は言った。いいの?ぼく、小さいころからかけっこで負けたことないよ。きみは意地悪そうに笑った。いくら元陸上部だって、センセイみたいな引きこもりには絶対負けん。

橋詰めをスタートラインにして、きみはひと足早く坂を駆け上がっていった。ハーゲンダッツよろしく、などと憎まれ口を残して。ふだん着なのに軽い身のこなしできみの背中はどんどん小さくなっていく。かけっこが得意というのは本当のことらしい。

風が強く吹いている。街の灯りに照らされて、雲の流れる様子が鮮明に見える。前髪がばさばさと揺れる。僕は何度も屈伸をして気を紛らわしながら、スタートを待つ。勝っても負けてもそんなことで僕の気持ちは変わらない。でも、僕は勝ちたい。それくらいのことができなければ、きみに向き合う資格なんてないと思うから。スマホがやかましくアラームを鳴らした。乱雑にバックポケットへ突っこみ、坂を駆け上がる。

小石をこすりあげる感触が靴底から伝わる。ビルの谷間を抜けて河原が近づくと空が広くなる。電源の落ちた電車。ホームの終端。東京と神奈川の境界線を越える。強く打つ心音だけが、鼓膜を飛び出している。他にはなにも聞こえない。

深い水底に溺れ、もがくがごとく手を突き出す。前へ、前へ、前へ。引きつった手のひらは何もつかみはしない。僕は、なにに向かって、手を伸ばす? なにに触れたいんだ、この手で。

僕はきみの後ろ姿に問いかける。この夜はいずれやってくる朝のためのものか? これはかりそめの風景で、いつか懐かしんだり、嘲り笑ったり、涙こぼしたり──それ以外に意味なんてないのか。

冗談じゃない。この夜が明けたそのさきに、なにが見えるのかなんて知らない。わからない。その光景を想像したって、自分の思うもの、期待するものとはまるでかけ離れていて、いつだってがっかりする。そうして“想像”の無力さに打ちひしがれるんだ。

シャツの生地が肌にこすれて、集中できない。僕はボタンに手をかけてひとつずつ外した。それを放り投げたときに突風が吹き、シャツは欄干を大きく乗り越え、中空に遊びながら橋の下の闇へと吸い込まれていった。川に着水した音すら聞こえない。あとで回収するつもりだったのに、さよならなんていうのはいつも突然だ。

まあ、いいや。
いいんだ、もう。

この夜に見えるものはかりそめなんかじゃない。“いま”だ。いまを、僕は生きているんだ。それがいとおしくてたまらないんだ。それがこの夜にしか見えないまぼろしだとしてもかまわない。僕は“いま”を抱きしめる。

そして、僕はようやくまた、走り出せる気がしてるんだ。
対岸の街、もうひとつの「瀬田」が見えてきた。きみの背中がぐんと近づく。息が苦しい。肺が痛い。心臓も、限界だ。引きこもり、その通りだ、否定なんてできない。それでも僕は歯を食いしばり、ふるえるふくらはぎでアスファルトを蹴りあげる。

きみの隣へ並んだときいっしゅん、目が合った。僕は思う。冷え切ってしまった僕のこころをその手で温めてくれたこと。一緒に走ろうと、声をかけてくれたこと。僕がどれだけそれをかけがいないできごとだと思っているかなんて、きっと伝わりはしないだろう。でも、それでいい。今度はおれの番だ。

前を見据える。僕はまばたきの間に渾身の力をこめて、きみを追い抜いた。

赤信号の下にある「神奈川県川崎市」の看板が目に入ってゆっくりとスピードを緩めた。

「足つっちゃった。真ん中ちょいすぎたくらいでさ。運動不足だ、あーくそ、くやしい」
振り向くときみが歩いてきた。きみは悄然と空を見上げて笑っていた。僕はなにも答えず、きみの頭を胸で抱いた。

「なんなん?やめてよ」
「おれの欲しいものをくれる、っていう約束だろ」
アホなんじゃないの?

きみは陸に揚がった魚のようにジタバタと抵抗したけれど、やがて静かに嗚咽をあげた。タンクトップが温く、湿っていくのを感じる。柔い髪の中にある汗のしずく、骨と骨のこすれる鈍い痛み、かすれた息、体温、川辺に茂る草の甘くむせかえるにおい、夜の色、いつか別れのときが、やってくるとしても。

きみも、僕も、なにもかも忘れてしまっても。

「奏」僕は、きみの名前を呼んだ。


(了)

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Author Profile
浅野 葛(あさのかつら)
1983年生まれ、静岡県出身。
県立広島大学人間文化学部中退。
大学進学からの10年間を広島で過ごしたため、
よそものにしてはそこそこ広島弁が堪能。

映像の仕事と並行して、小説作品を執筆している。
「...and I'm on the run」にて
第4回BUNCAコンペティション Novel部門「原稿用紙10枚以上」
審査員特別賞を受賞。

筆名の「葛(かつら)」は、(勝手ながら)師と仰ぎ、
敬愛する漫画家、村上かつら氏の名前を拝借したもの。
文芸レーベル「No-w-Here」(ノウウェア)公式サイト
http://no-w-here.org/

note
レーベル:https://note.com/no_w_here
個人:https://note.com/sanyo_teibun

twitter
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