第4回 BUNCAコンペ小説部門入賞作品「カエルヒ」- lime -

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第4回、BUNCA Competition「小説部門」で入賞されたlimeさんの入賞作品がついに公開です!先生が創った"繭"とは一体…?私と先生の切ないストーリー…是非、ご覧ください!

【第1話 繭】

先生のアトリエへ続く薄暗い廊下を歩きながら、私はふと自分の右手を裏返した。カバー無しで木炭を握っていた3本の指と、画用紙に接する小指から下が真っ黒だった。濃紺の制服のスカートで、炭の汚れをごしごし擦る。僅かに取れたところでスケッチブックを抱え直し、廊下を進んだ。

先生の住居兼アトリエは、私たち生徒のデッサン室と、バラックのような通路で繋がっている。もともと別棟だったものを、先生自身が廃材を使って繋げたのだそうだ。雨の日も、生徒や作品が濡れないように。突き当りにぼんやり浮かび上がった、真鍮のドアノブにそっと手を伸ばし、引いた。何の音も、何の抵抗もなく、他者を招き入れてくれる古い木製の扉。先生の部屋は廊下と同じくらいにいつも薄暗く、ブロンズ粘土と木の匂いがした。

先生はいつものように部屋の隅に立って、粘土を捏ねていた。あまり日に当たらずに過ごした白い繊細な指が、人間にはありえない、別の色に染まっているのを見ると、なぜかドキリとする。私に気がつくと先生は、すぐ側のバケツの水で手を洗い、30になったばかりの精悍な顔をこちらに向けた。

「仁科さん、描けた? 見せてみて」
静かで深いその声は、3時間石膏デッサンに励んだ私にとって、何よりのご褒美だった。

私が手渡したブルータスのデッサンを、先生は立ったまま手に取り、じっと見つめる。苦手な時間だ。私自身の骨を透かして見られているような気恥ずかしさに、いつも落ち着かなくなる。

美大受験生の為のデッサン教室を開いている先生の元へ私が通うようになったのは、高2になった半年ほど前だ。先生は塑像作家であり、結構名の知れた現代芸術家だそうだが、私は知名度のことは、よく分からない。私に分かるのは、先生の目がとても優しくて、手がとても綺麗で、先生の作品がどれも魅力的だということだけ。

アトリエの隅には、個展から戻ってきた大小さまざまな塑像たちが無造作に置かれている。粘土を捏ね、指先の感覚だけで作り上げていく塑像は彫刻よりも生々しい。ブロンズ色に輝く男も女も、みんなどこか色気を含み、先生自身に似てる気がした。

「構図がとても良くなった。溜まりの加減もいい。でも細部の陰影ばかりに拘わり過ぎないようにね。彼そのもののバランスが崩れてしまう」
そんな先生の声を聞きながら、私はワザとほんの少しよそ見をしてみた。光の当たらない部屋の隅に、ずっと放置されたままの先生の作品がある。

以前から私は「それ」が気になって仕方がない。「それ」はそっと、忘れられたかのように、そこにあるのだ。不思議なことに、心を掴まれないはずのないその異彩を放つ作品に、私以外の生徒はまるで反応を示さない。こんなに美しいのに。みんな馬鹿なのだ。

「仁科さん」
「はい」
「もう9時になる。残ってるのは君だけだよ。親御さん心配なさるから、帰りなさい」
「平気です」

だいたい気に入らない。私がその作品に注意を向けると、先生はいつも困ったように何気なく気を反らせようとする。それなら納戸の奥にでも入れ込んでしまえばいい。ビニールシートでも掛けてしまえばいいのに。そこに無造作に置いておいて、見るなと言うのか。それはまるで先生の目の届くところで日々新陳代謝を繰り返してでもいるかのように、埃を被ることなく存在感をアピールしている。

今日はちゃんと訊いてみようと思う。あの作品は、いったい何なのかを。アトリエの隅の書架に置いてある小さなラジオが、ガーガーと雑音を立て始めた。さっきまで小さく小さくニュースを流していたラジオの存在に、私は改めて気がついた。これも気に入らない。

この外界から遮断された特別な空間に、世俗的なニュースや音楽を持ち込むラジオは不釣り合いだった。以前はそんなもの無かったのに。ここ1ヶ月だろうか。先生はいつも小さな音を出す、ラジオのニュースに耳を傾けている。お天気のこと、高速道路で起こった玉突き事故のこと、火事のこと、そして最近多発している幼児失踪事件のこと。
どうでもよかった。それよりも私が気になるのは、あの“繭”のことなのだ。私は痺れを切らし、先生の手から自分のスケッチブックを取りあげ、閉じた。勉強の時間は終わりだ。

「先生。あの繭って何で出来てるんですか?絹糸。でももっと繊細で蜘蛛の糸にも見える」
私が部屋の隅のあの作品を指さして尋ねると、先生はふっと目を細めた。ついに訊かれてしまったな、とでも言うような苦い笑みだ。

「蜘蛛の糸か。そう言う発想、面白いね」
答えになっていない答えだったが、私は取り敢えず満足だった。拒否されなかった。立ち入らせてくれた。あの素材のように細い細い糸が、先生と自分の間に繋がった気がした。

繭。私はそう言ってしまったが、それは巨大な卵のようにも見える。直径は80センチほどあるだろうか。本当に見たこともない素材だった。僅かな光をもキラキラと浮かび上がらせる。絹糸をもっと繊細に、透明度を持たせて紡いだような。未知の膜で出来た、楕円の球体。繭にも見えるが、実際は卵なのかもしれない。

じっと先生の穏やかな横顔を見ながら、そこから先の説明を待ったが、閉じた唇は動かなかった。さっきデッサンしたブルータスのそれに似ている。けれどそっと指で触れれば、たやすく開きそうな柔らかさがある。弱さと言うべきか。意地悪く、こじ開けてみたかった。そして訊いてみたかった。あの繭は何なのか。その透き通った繭の中にうずくまるようにして眠っている、乳白色の幼児は、いったい何なのか。


【第2話 固執】

初めてその作品を見たときの感覚は今と少し違う。ただ単純に美しい作品だと思ったのだ。まだここへ来て1ヶ月足らずの時だったろうか。先生が少し部屋を出た間に、カーテンの隙間から薄く差し込む夕日の明かりでそれを見た。薄い膜をキラキラ輝かせる繭の中には、瑞々しい水蜜桃を思わせる肌をした小さな幼児が眠っていた。胎児のように背を丸め、穏やかな表情で目を閉じている。私は横のダンボールをずらし、近寄って細部まで眺めた。

中の幼児はきっと特別な粘土で作ってあるのだろう。今までそんな色の塑像を見たことは無かった。床に這いつくばるようにして、更に覗き込んだ。小さな鼻。華奢な肩。柔らかく閉じた瞼。どれも愛らしく、そして生々しい。膝を抱え込む小さな指先は、皺や爪まで精緻に再現され、その中には柔らかな骨を想像させた。

強く捻ればポキリと折れそうで、ムズムズする。足の付け根に小さな男性器が見えた。男の子だ。それでも美しいと思った。透けて見えるほどに薄い膜を隔てられているだけで、決して触れることができない汚れのない命。否、これから生まれ出ようとする未熟な生命体。こんなに汚れ無いものはないと、その時確かにそう思った。

だけど、今は違う。

「仁科さん。本当にもう、帰らないと」
「邪魔ですか?」
「そんなことはないけど」
冗談っぽく言ったつもりだったが、先生は少し困惑した顔つきになった。けれどそれも、私の好きな表情だ。

あの幼児の素材は?モチーフは?コンセプトは?質問はいくらでも頭の中に湧いてきたが、いざ訊こうとすると、どれも違うように思えて、結局やめた。この質問では、欲しい答えは得られない。私は隅に置いてあった椅子を引き寄せて勝手に座り、先生を見上げた。どうやって先生を責めようか。どうやってあの作品の正体を聞き出そうか、考えながら。

「卵に妙な固執があるんだ。たぶんね。それだけ」
思いがけずに先生は口を開いた。頭の中を読まれたのかと、一瞬ドキリとした。

「え?」
先生は作業机の椅子に自分もそっと座り、私を見た。心なしか笑っている。『仕方ないお嬢ちゃんだ。そんなに気になるかい?』とでも言っているように思え、少しばかりカチンときた。

「農家に一週間、体験で宿泊したことがあってね。その時、僕の分担は、チャボの生みたて卵の回収だった」

―――何の話だろう。
「子供の頃ですか?」
「うん。まだ施設にいた頃ね」

施設という言葉を、先生は躊躇わずに使った。先生が親に育てるのを放棄され、施設で育ったと言う話は、ここに通う他の生徒から聞いたことがある。けれどそんな話は別に聞きたい話ではなかったし、興味もなかった。

「先生は、卵係だったんですね」
「うん、そう。だけどある日、その卵係はちょっとショックな失敗をやらかした」
「全部割っちゃったとか?」
「そんなヘマはしないよ。誰にも咎められなかったし、農家の人も笑ってくれたし。でも僕は、今でも忘れられない。何度も夢に見るよ」
先生は少し笑いを残したまま、そのショックな思い出を静かに語ってくれた。

その朝先生がチャボの小屋から取ってきた卵は全部で9個で、すぐに茹でられ、子供らの朝食の一品になった。食べるのが遅かった先生は、その卵に手を伸ばすのが一番最後になったが、剥こうと手を掛けた卵から出てきたのは、茹で上げられたヒナだったという。

「ちょっとしたトラウマかな。だからこんなもの作っちゃったのかも」
「有精卵だったんですね。でもそんな話、よく聞きますよ」
「そう?」
「はい」
私は先生を慰めると言うよりも、苛立ったように返した。そんなくだらないことが、あの作品のコンセプトであるはずがないのだ。私には分かる。

「蚕だってみんな同じ目に遭ってるんです。そんなこと気にするのは変です」
「蚕?」
「蚕は繭を作った直後、生きたまま茹でられちゃうんでしょ? 何千何万のサナギを茹で殺して、あの綺麗な絹糸を採るんだって聞いたことがあります」
「そうか。うん、そうだよね」
「雛1羽でトラウマなんて、らしくないです」
らしくない。自分で言って、可笑しかった。たった半年通っただけでこんな事を言ってしまう自分が可笑しかった。そもそも、自分が思っていた“先生らしさ”は10日前にとっくに変容していた。

―――あの繭の中の幼児に何を想うのですか、先生。あの子は、誰ですか?

10日前に見た光景が再び鮮明に頭を過ぎった。このアトリエの裏手にある小さな空き地。その片隅の、手入れされていない植え込みの横。先生は、チョロチョロと走り回る小さな男の子を見つめていた。その子は先生の前で転び、すぐさま先生に抱き起こされた。転んだショックで泣き出しそうになった男の子を慰めるように、先生は両腕でぎゅっとその子を抱きしめ、そしてその子の唇にキスをしたのだ。

「僕らしいって、……何だろうね」
ラジオが再びノイズを響かせる中、先生は、誰に問いかけているのか分からない声で、ぼんやり呟いた。


【第3話 嫉妬】

体にのしかかってくる暗さだった。重くて息ができない。このアトリエはこんなに暗かっただろうか。闇の先でなにかが笑った気配がした。見なくても分かる。あいつだ。灯りは付いていないのにその繭だけはボンヤリと仄白く発光し、闇の中に浮かび上がっていた。私を誘っているの? それは挑戦?

私が歩み寄ると、繭の中の幼児はゆっくりと顔を上げ、二つの眼を開けて私を見つめた。サファイアのような青い硝子の瞳だ。私を小馬鹿にしたようにキラリと光り、そして小さな唇が笑った。私は込み上げてくる苛立ちを押さえきれずに手を伸ばし、その美しい膜を突き破った。砂糖菓子のようにシャラシャラと音を立て、繭は呆気なく崩れていく。

幼児は目を見開いて私を見上げる。怯えているのだろうか。いい気味だ。繭を崩壊させた私の手は、躊躇いもせずに小憎らしい幼児の細い首を掴んだ。柔らかい肉を掴むと思ったのに、そこに温かい感触はなかった。サクッと乾いた音がする。

―――誤算だ。もっと怯えた顔が見たかったのに。

彼は私の目をじっと見つめたあと、再び笑った。そしてその笑いの余韻をのこしたまま、首の辺りから砂のようにサラサラと崩れ落ち、あっと言う間に消えて無くなってしまった。

『無理だよ』
幼い声だけが暗闇の中、湯気のように漂う。
「無理って何よ!」
『あんたのモノにはならない』
「そんなこと、お前に言われたくない!」
私は思いきり声を張り上げ、そしてその声で目覚めた。自分の部屋のベッドの上で、私は夢の中の幼児相手に格闘していたのだ。情けなかった。そして、腹立たしかった。

その日は台風接近による暴風警報が発令され、全ての教育機関が休校となった。けれど両親が仕事に行ってしまってからも風はいっこうに強まらず、肩すかしの予感がした。それでもひりひりと、胸の奥に電気が走るように感じるのは頭上から覆いかぶさる低気圧のせいだろうか。それとも、ついさっき見た夢のせいだろうか。

父親がソファの上に広げて置いて行った新聞中面の記事から、幼児という文字を拾っただけで神経が尖る。最近幼児にイタズラをする成人男性が増えているという記事だ。そして関連記事としてその横に、行方不明になっていた男児が遺体で発見されたという記事が大きく載っていた。

発見されたのは二日前。昨日はTVでもやっていた。鮮明な写真付きで。施設の子供だったらしい。吐き気が込み上げた。狂ってるんだ、こんなやつら。罰を受ければいい。私はトンと何かに弾かれたような衝動を感じ、すぐに家を飛び出した。髪もとかさず、傘も持たず。少し湿気を含んだ風が程よく冷えていて、気持ちよかった。台風も暴風も大歓迎だ。もっともっと大きくなれ。吹き荒れろ。

先生のデッサン室は今日も鍵が掛かっていなかった。教室がある日でも、無い日でも、いつも同じ。無用心。簡単に誰でも受け入れる。デッサン室からいつものようにアトリエに飛び込むと、先生は驚いたように私を見た。急に母親に部屋に入られて、慌てて良からぬ雑誌を閉じる中学生のようにほんの一瞬、視線が戸惑う。

伸ばした綺麗な指先が、今までノイズを響かせていたらしい、古いラジオのスイッチをパチンと消した。今日は粘土を捏ねていない。いつも散らかっている机の上が、やたらと綺麗になっているのは、何故だろう。

「仁科さん。どうして?」
「今日は学校、お休みなんです」
「警報が出てるんだろ? 危ないよ」
「小さな子供じゃあるまいし」
私は手持ち無沙汰につっ立っている先生の横に歩み寄った。

「先生、前に塑像のモデルを捜してるって言ってましたよね。私をモデルにしてください」
「そんなことを言いに、わざわざ?」
 先生は困ったように笑った。
「いけませんか?」
「ちゃんと美術モデルに頼むから、大丈夫だよ」
「興味ないですか?」
「何に?」
「私に」
「どういう意味?」
「それとも、女に興味がないんですか?」
「仁科さん」
「先生が男の子にキスをしてるのを、見ました」
ガコンと、外壁に何かがぶつかった音がした。風が強まっているのだろうか。ウオーンと、電線が唸る。もっと強くなれ、吹き荒れろ。

「なんだ。見られちゃったか」
 先生は、ことも無さげにサラリと言った。
「否定しないんですね」
「見間違いだよって、言えばいいのかな」
「やっぱり、そうなんですか?」
「そうって?」
「あんな子供がいいんですか?」
「君は、真っ直ぐだね」
やはり、優しい声だった。

「あのあと、どうしたんですか?」
「あのあとって?」
「あの子。あの男の子を、どうしたんですか?」
「……」
「行方不明になって、一昨日遺体で発見された男の子の写真をTVで見ました。顎に、大きなアザがあったけど、目のクリッとした、可愛らしい男の子でした。私、一度見た顔は忘れないんです」
「いい才能だと思うよ。絵を描く上でも」
「先生と空き地にいた、あの男の子でした」
「……そっか」

 先生は虚ろな目をしてゆっくり椅子に座った。虚ろな目はしばらくどこにも落ち着かずに、静かに部屋を泳いだ。

「私、夢を見るんです。あの子の」
「……あの子?」
 私は視線をしっかりと部屋の隅で沈黙している繭の方に向けて、先生に示した。
「あの薄い膜を破って、あの中に手を突っ込んで、バリバリって」
 先生の目が、ゆっくりと動いて私を見たのを感じた。
「あの中の子供を殺そうとしてしまう夢です」

先生はじっと私を見つめていた。見られているだけで、体の中がじわりと熱くなっていくのがわかった。

「どうしてそんなことを?」
「さあ、分かりません。最初は嫉妬してるのかと思ってたんだけど」
「嫉妬って、誰に?」
「あの繭の中の子。先生のこと、訳知り顔で作品の一部に収まっている、あの子に。でも、よくわかりません。夢ですから」
「でも、そんな夢の話を僕に伝えた。なぜ?」
「たぶん……」
「たぶん?」
「先生に教えて欲しいんだと思います」
「何?」
「二つあります。ひとつは、あの作品は、完成してるのか、未完成なのか」
「もう一つは?」
「先生は、何か人に言えないことをしましたか?」

予期していなかった恐怖心が一瞬体の中を突き抜けていったが、私は自分の視線をまっすぐ先生の目に重ねた。けれど私の視線は受け止められることなく交わされ、そして先生の視線の方は、ゆっくりと部屋の隅の、あの作品に向けられた。そしてため息のように、小さく呟いたのだ。

「本当に殺してくれたら、よかったのに」


【第4話 儀式】

予想外の先生の言葉に胸を突かれた。けれどこちらを見つめてくる先生の目はあまりにも穏やかで、私は「どういうこと?」という質問を飲み込んだ。やっと視線が絡まった。きつく結ばれていたものが解けかけている。待っていようか。こじ開けようか。その中身が見たい。

「あの空き地にはね、僕とその子供と、もう一人いたんだけど。気がついた?」
 先生は、そう続けた。
「いえ……分かりませんでした」
「そっか。ならいいんだ」
「よくないです。先生は私の質問にまだ、何も答えてくれていません」
「ひとつ目の質問なら答えられるけど」
「二つ目は?」
「仁科さんは、いったいどうしたいの」
「気になって仕方ないんです。先生のこと、先生のいろんなこと」

先生は椅子に深く座り直し、おかしそうに声を出して笑った。明るい笑い声だ。何かに妄執し、心を病んでいる男の声では無いように思えた。けれどその軽やかな声が、私を無性に苛立たせる。

「笑わないでください」
「ああ、ごめんね。仁科さんが僕なんかに興味を持ってしまったみたいだから、何か、おかしくて」
「悪いですか?」
「いや。悪くはないけど、意味のない事だよ」
「意味は関係ありません。ただ私は、好きなモノの正体はちゃんと知っておきたいんです」

正体を知りたい。確かにそうだった。

好きだった蝶は何匹も捕まえて瓶に閉じ込めた。毟った。バラバラに分解した。命というものを理解したくて、理科の魚の解剖実験も、興味深く参加した。顕微鏡の微生物を、目がヒリヒリするほど凝視した。心惹かれるモノの正体を知りたい。それは小さな頃からの、自分の最大の欲求だったように思う。

「仁科さんは、いいね」
ふいに、先生が言った。馬鹿にしている風でも、からかっている風でもない言葉だった。
「ちゃんと自分が分かってる」
「どういう意味ですか?」
「僕はさ、茹でられたヒナだ」
先生は薄く笑い、そしてしばらく黙った。

「ヒナ?」
「孵化する前の卵をうっかり茹でた話をしたよね。あの時ね、本当はショックだったと言うよりも、羨ましかったんだ。仁科さんが蚕の繭が茹でられてしまう話もしただろ? あれを聞いたときも同じ気持ちだった」
「どうして? 羨ましいって、変です。何もかも、これからって時なのに」
「人間は母親の子宮の中で。ヒナは卵の中で。サナギは繭の中で、夢を見てるんだ。これから飛び出す世界がどんなに厳しいか知らず、夢の中で満たされて眠っている。寒くもなく、暑くもなく、寂しさや、不安もなく。もしかしたら、一番幸せな時間なのかもしれない」
「じゃあ、そこで時間が止まったら、一番幸せだと思うんですか?」

私の質問に、先生は答えなかった。けれど先生のまわりの空気に、答えが漂っているように感じた。

「けっこうネガティブなんですね」
ポロリと口から出てしまった言葉に自分でもハッとしたが、先生は声を出して笑ってくれた。
「そうだよ。ネガティブで弱虫だったんだ。施設にいるときの僕は特にね。外界とは少しばかり異なる空間で、特別な時間を過ごしている自分は、外に放り出されたらどうなるんだろうと、いつも不安だった」
「施設ってそんな閉ざされた特別な場所じゃないんでしょう? 普通と変わらないはずよ」
「そうだね。……でも僕らは違った」
「どういうふうに?」
「飼われていたから」
先生は私の視線から逃れるように再び部屋の隅の繭に目を向けた。ダンボールの影に隠されて、中の幼児は今日も姿が見えない。

「空き地にはね、もう一人いたんだよ」
「そうなんですか」
「気に入った子がいると、あの人はいつもここに見せに来る。この儀式は施設を出てからもずっと続いてるんだ。もう終わりにしなきゃいけないと思ってるのに」
「あの人って誰ですか? 儀式って?」

そして、終わらせなきゃならなかった事とは何だろう。私が空き地の側を通ったとき、誰がいただろうか。散歩中の老人が1人、ぼんやり佇んでいた気はするが。あの子供は、その老人が連れてきた子供だったのだろうか。

「先生?」
「弱虫だったから。もう少し、夢を見ていたかった」
再びアトリエの外壁に何かがぶつかる音が響いた。先生は少し慌てるように立ち上がり、小窓のカーテンを捲って外を確認した。

「仁科さん、もう帰った方がいい。風が強くなってきてる」
「別に構いません、風なんて」
「僕は困るよ。これから、いろいろ片付けがあるんだ」

先生は本当に困ったような表情をワザとつくり、大げさに手を腰に当てて私を見つめる。下手くそな役者のような仕草に、私は笑いながら、しぶしぶ立ち上がった。まだまだ訊きたいことはあったが、またこの次にしよう。ひとつだけ、大きな謎は解けたのだから。

「先生、私、勘違いしてました」
「なに?」
「あの繭の中で眠っている幼児は、先生だったんですね」
先生は柔和な笑みをひとつ作って私に返すと、「気をつけて帰りなさいね」と、それだけ言ってくれた。

あの時もっとたくさん話をしておけば良かった。その胸の内を切り開いて、深い部分まで見ておけば良かった。熱いのか。冷えているのか。どんな痛みに震えているのか。何を願うのか。

もっと、もっと、もっと。


【5 完結】

逸れるだろうと思っていた台風はその夜、私の住む町をしっかり手中に収め、遅くなった帳尻を合わすかのように暴れまくった。翌日になっても暴風警報が取れず、引き続き学校は休校となった。私は退屈な時間を、荒れ狂う窓の外ばかりを見て過ごした。

台風の日は何故か心の奥がザワザワする。けれど、その日の私の中のざわつきは、昨日先生と交わした会話のせいに違いない。穏やかに語った先生の言葉一つ一つを宝物のように反芻し、咀嚼し、吟味する。語られなかった言葉を詮索して妄想する。

鏡のような清らかな水面に手を突っ込んで乱暴にかき混ぜたらきっと、不安に打ち震える真紅の心臓が水底の澱の中から姿を表したに違いない。胸の中が騒がしくて、私は昼間なのにベッドに潜り込んで目を閉じた。風が木々を嬲る音に混ざり、先生の部屋で感じた奇妙な気配が鮮やかに蘇る。モゾモゾと、飼われたケモノが、伸びをする音。

昨日の暴風が嘘のように翌朝は晴天で、学校へ行く支度を整えながら、私は何気なくリビングのTVの音声を聞いていた。ほとんどが台風の爪痕を報じるニュースだったが、一つだけ私の心臓をえぐるものがあった。増水した川の下流で、1人の男性の遺体が見つかったという。

普段はまるで耳に入ってこないニュースキャスターの声色が、今朝は私に語りかけているように思えて総毛立った。年齢は69歳。発見現場付近の児童施設の施設長だったらしい。まるで私に“見ろよ”と言わんばかりに男の顔写真が画面に映った。

―――これ、あの日空き地に居た人だよね、先生。

私は激しく打つ心臓とは別の、どこか冷静な頭でそう呟いた。その遺体には争ったあとのようなものがあるとニュースキャスターは続けた。そして先日ニュースに上がった幼児が、この施設の子供だと言うこと、更にこの施設長が一部でわいせつ行為を働いていたという噂があったことを取りあげた。

けれど本格的な内部調査には至らず、この10年ほどで3人の幼い男児が不審死をとげているが、それも単なる監督不行届という扱いにとどまったらしい。今回の施設長の件は事故、事件の両面からの捜査が行われると締めくくられたが、嫌な憶測だけを余韻に残す、歯切れの悪いニュースとなった。

「嫌ね、こういうの」
母が軽い調子でそれだけ言うと、またキッチンに消えた。私の先生が、その施設長に育てられた子供だとは、気付いてもいないのだろう。

“嫌ね”。そう言って吐き捨てられる、健全な世界に住める自分たちは、幸せなのだ。

「お母さん、ちょっと熱っぽいし、頭が痛い。朝、病院に寄ってから学校行くから、担任に連絡しといてくれる?」
「あら大丈夫? 休まなくて平気?」
私は大丈夫だと笑ってみせると、朝食もそこそこに家を飛び出した。

雲ひとつ無い空から注ぐ日の光が目を射して痛かった。けれど心がムズムズとして、自分を押さえられない。通い慣れた道を思い切り走り、私は先生のアトリエへ向かった。

アトリエ正面のドアの鍵は閉まっていて、人の居る気配がしなかった。けれど、私は躊躇わずにデッサン教室の裏口にまわり、古い形のノブを捻った。やはり、鍵はかかっていない。無用心。自分を守ることをしない先生らしい。息を切らせて暗い廊下を走り先生のアトリエに飛び込むと、やはりそこはいつものように外界の光がカーテンで遮断され、重い闇が垂れ込めていた。

もちろん先生はもういない。家を飛び出したときから、そう確信していた。それでもガランとして暖かさを失った部屋を見ると、胸にくる。
〈もう、終わらせなきゃ〉と先生は言った。〈飼われていた〉んだと教えてくれた。施設長が見せに来たあの子供は、悲しい運命を辿った。汚れた歯牙にかけられた。

「先生は、終わらせたんだよね」
シンとした部屋でそう呟いた声が、じわりと辺りの闇に溶けた。

施設の中に居る間、あの施設長が先生の全てだったのだろう。外界では許されない関係であったとしても、そこで血肉を育てられたらもう抜け出せない。

―――いつまでもずっと、繭の中で眠っていたかったんだよね、先生は。永遠の子供のまま。

私は薄暗がりの中、いつもの場所にあの繭を探した。けれどそれはアトリエの中央に移させられていた。他の塑像たちは全て処分され、何もない空間に、その繭だけがポツンと置かれ、私を待っていた。カーテンの僅かな隙間から零れた光が強いラインを描き、その繭を照らし出している。計算されたステージだ。私は目を見開いた。もう半年もの間見続けて来たその作品は、大きく姿を変えていたのだ。

「ああ、そうか」
私はそれにゆっくり近づきながら得心した。

光に晒されてキラキラ輝く銀の糸の集合体は、斜め上部がざっくりと切り開かれていた。私が夢の中で破いたような無惨なものではなく、内側から外へ向けて、咲くように開いていた。そして、中にはあの幼児は居なかった。中身は完全に空っぽだった。気持ちのいいほどに。

「生まれたね、先生」
自分でも不思議だが、私は微笑んでいた。あの幼児がとても憎らしかったことも、今は滑稽に思えてくる。理解できたことへの安堵が、こんなに甘美なものだったとは。

「ねえ先生。これ、先生のかわりに、私に頂戴」
もう居ない主にそう言って、私はその繭をそっと手で撫でた。

幾日経っても、先生は帰ってこなかった。両親は先生の突然の失踪に責任感がないと怒り、教室の生徒達は好きずきに、先生の失踪の原因を詮索して楽しんでいた。先生がこの世に留まってくれていることを祈りつつも、私は取りあえず静観していた。いや本当のところ、この結果に満足していたのかもしれない。何よりも嬉しかったのは先生が、私の最初の質問の答えをくれたという事だ。

先生のアトリエの隅でずっと思わせぶりに「未完成」のまま置かれ、気になって仕方が無かった作品。それは今、私の部屋にある。先生はちゃんと、作品を「完結」させてくれた。

キラキラと透ける光の糸で織られた美しい繭。苦悩のケモノをひとつ産み落とし、涼しい顔をして佇む、高慢知己な球体だ。それはきっと先生の生涯の、最高傑作なんだと、私は思う。


(了)

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Author Profile
lime
芸短卒。デザイナー、フリーイラストレーターを経て、現在は主婦業の合間に趣味で小説執筆。
☆南海電鉄小説コンテスト:大賞《審査委員:有栖川有栖、今井雅子》
『君にとどけ -Lonely whale-』 https://estar.jp/official_contests/152763 
(こちらからも読めます) https://news.mynavi.jp/kikaku/20180314-nankaimonogatari/

☆第8回ノベリスタ大賞:大賞・《審査委員:石田衣良》
『凍える星』(本編) https://estar.jp/novels/23720414

☆第9回ノベリスタ大賞:準大賞・《審査委員:石田衣良》
『人魚の夜』(結果発表・あらすじ) https://estar.jp/official_contests/146943
(本編) https://estar.jp/novels/23878354

☆超妄想コンテスト「その奇妙な店は」からはじまる物語:大賞
『DOLL』 https://estar.jp/official_contests/149368
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