第4回 BUNCAコンペ小説部門入賞作品「辺境自転車店」#2- mugiko -

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第4回、BUNCA Competition「小説部門」で見事 最優秀賞に選ばれた、mugikoさんによる「辺境自転車店」#2を公開しました。病で倒れた大将の味を出せずに悩んでいるラーメン屋の青年が、ひょんなことから辺境自転車店に訪れて…続きは是非ご拝読下さい!

<2>

小塚さんからラーメンの出前の電話が入ると、遥希(はるき)は聞こえないよう受話器を押さえてチッと小さく舌打ちした。

「何べんも云ってますけど、うち今、出前はやってないんすよ」
「あんたもいちいちうるさいね。あたしは大将の昔からの客だよ。それとも何だい? ひざの悪い年寄りにわざわざ店まで食べにこいって命令するの、へえ、あんたもえらくなったもんだね、少し前まではただのアルバイトだったくせにさ」
「店長になってから、俺もう一年経ちますけど」
「一年経つのにまずいスープしかつくれないってのはどういうことかねえ。とにかく、さっさと持ってきてよ」

一方的にがちゃんと乱暴に切られてしまった。無駄だと知りながら反論を試みたが、今日もまた失敗に終わったようだ。

「まずいなら食わなきゃいいだろ、くそばばあ」
切れた電話に文句を云っても平気なのは、店に客が誰もいないからだった。午前十一時三十分。この界隈の飲食店は軒並み開店したところだろう。昼食にはややはやい時間とはいっても、客がちらほら入りはじめておかしくない時間帯だ。正午を過ぎてもこうだと冷や汗が出てくる。実際、遥希が跡を継いでからの春来軒(しゅんらいけん)は週の半分がそんな感じだった。

急いでラーメン一杯をつくり岡持ちに入れると、遥希は店を飛びだした。こうなったらちゃっちゃといって帰ってくるに限る。外のドアノブに「出前中。すぐもどります」の札をかけ、店の前にとめてある自転車にまたがる。年季の入った古い自転車はこれも大将から譲り受けたものだが、バイト時代から乗りこなしていたので岡持ち片手でも難なくのれる。バランス感覚を必要とする昔ながらの出前スタイルを嫌がるバイトが多い中で、大将曰く、遥希はスジがいい、だそうだ。ほめられて悪い気はしなかった。そういう運動神経のよさも大将に気に入られた理由のひとつだった。

「はやくバイクにしないとなあ」
ゆっくりと慎重に自転車をこぎだしながら、遥希はため息を吐いた。

自分はいいのだ。でもいざ出前を復活させようとするとバイトがこない。悩みは大将の時と同じだった。だからといってバイトに店番をさせ、店長自ら出前にいっていたのでは効率が悪すぎる。今は岡持ちを荷台に固定し、自動でバランスをとりながら走行できる出前用のバイクがあると聞く。そういうものに変えなければ、近頃の若者はバイトにきてくれないだろう。

まあ、俺もまだ二十代なんだけどよ。
高校を卒業後、大学には進学せず、いくつかのバイトをかけもちしながら遥希は暮らしていた。これといってやりたいこともない。両親にははやくに死別し、もともとひとりで生きてきたようなものだから気楽なものだ。そんな数々のバイトの中で、一番長続きしたのがここ春来軒だった。

大将は大将で妻に先立たれ、老体にむち打って店を続けていた。バイトは雇ってもすぐに辞めてしまう。出前問題をさし引いても、きつくて汚くはないが脂っぽいラーメンのにおいが全身にしみついてしまうこんな仕事は最近の若者に好まれない傾向にある。そんな中、仕事を特別嫌がる風でもなくそこそここなしていく遥希は珍しくありがたい存在だったようだ。大将には子どももおらず、遥希を息子のようにかわいがってくれた。

その大将が病に倒れ、今後店をどうするかという時に、閉めるぐらいなら遥希に継がせようと考えたのはまあ自然な流れだったのかもしれない。遥希のほうもそう深くは考えずひき受けた。どうせ根なし草の人生なのだから、ここいらで店を構えて落ち着くのも悪くないな、というくらいの軽い気持ちで。

店の客の中にも遥希が大将の実の息子だと信じる者も少なくなかった。春来軒の春来は偶然だけど「はるき」とも読める。だから遥希の名前の読みを店名にしたのだろうと云う人もいた。まったくの見当違いだが、そんな風に云われるとこうして店を継いだのも運命みたいな気もしてくるのだった。

「よっと」
遥希はカーブをうまくやり過ごす。スピードが出たほうが安定するが、そのぶん曲がり角では遠心力が大きくなるので要注意だ。小塚さんちは距離的には近いけれど曲がり角がいくつかある。その中でも次にくるカーブはゆるやかではあるがくだり坂になっていて、なかなかの難所だった。さすがの遥希もはじめの頃は一番このカーブに苦労した。

待ち構えてるからな、あのばあさん。
やれひざが悪いの、足腰が弱っただのと電話口では云っても、小塚さんはいつも玄関のあがり口で仁王立ちで待っている。玄関のひき戸を開けた途端に「遅い」のひとこと、それから岡持ちからラーメンをとり出すのを観察し、スープがこぼれていないかどうかチェックする。遥希の目の前でひとくち飲むのも忘れない。大将のいた頃は主に出前の仕方について文句を云っていた。スープがこぼれたのはあんたの運転がへただから、とか、ぬるいのはちんたら走ってくるからだ、とか何とか。難癖つけてまけさせようとすることもあるから質が悪い。

それも遥希が出前をマスターする頃にはあまり云われなくなっていたのだが……。
大将が亡くなって遥希の代になり、出前は無理なのでやめてしまった。しかし、いくら云っても聞かないのが小塚さんだった。仕方なく今日のように遥希が自らもっていく羽目になる。もう年寄りなので仕方ないと割りきってしまえばいいことだが、遥希がいきたくない理由はもうひとつあった。それは、スープを飲んだ小塚さんが毎回決まって云う台詞が増えたことだった。

「まずい」
大将がラーメンをつくっていた頃には一度も耳にしたことがない言葉だ。ったく。何がどう違うっていうんだ。
この言葉を聞くたびに、遥希のいらだちは募った。俺のことを嫌いな小塚さんのただの云いがかり……と自分をなぐさめてみようにも、実際客足が減っているのは疑いようのない事実だった。だから小塚さんの小憎たらしい言葉も、あながち間違っていないんじゃないかと思うと落ち込むのだった。

自分では大将のつくっていたスープと何が違うのか判らないから余計だった。急きょ店を継ぐことが決まったとはいえ、バイトの間すぐそばでスープづくりは見てきたし、大将からレシピも教えてもらっている。材料や時間をごまかしたこともない。あと考えられることといったら、レシピには載っていない秘伝の隠し味のようなものがあって、大将がそれを自分に伝えることなく亡くなってしまったのではないかという疑念だけだった。

それさえ判れば俺だって……。
もやもやとそんなことを考えているうちに、ゆるいカーブのくだり坂が目の前に迫ってきた。いつものようにブレーキを細かく効かせてバランスをとろうとした遥希は、ブレーキレバーの手ごたえがおかしいことに気づいた。何度右手で握っても、自転車が減速する気配がないのだ。

まさか、と青くなった。ブレーキが壊れてる!?
咄嗟に足を開き、地面についてとめようとしたが無理だった。ずずーっとつま先がもっていかれ、あやうくバランスを崩しそうになる。壁に激突しないようカーブを曲がるだけで精いっぱいだった。加速しはじめた自転車をとめる術はもうなかった。

「わ、わ、わ、わ、わ……」
遥希は思わず目をつぶった。

これは何の冗談だ?
目を開けた遥希が最初に思ったのはそれだった。ひっくり返った自転車と岡持ちを尻もちをついたままの姿勢でぼんやり眺める。しかし、遥希が「冗談」と心の中で呟いたのは周囲の状況ではなく、自分の身に起こった惨憺(さんたん)たる結果に対してだった。

目の前に垂れさがった麺をゆっくりと手でよける。それから立ちあがると、やにわに頭にかぶった麺のかたまりを腹立ちまぎれに地面に叩きつけた。

スープで火傷しなかったのは幸いだが、だからといって笑っていられる場合じゃない。店にもどってラーメンをつくり直してもう一度出前しようにも、自転車のブレーキが壊れているのでは話にならない。小塚さんに電話して、今日の出前は諦めてもらうよう頼もうか。そんな電話をすれば、年寄りを餓死させるつもりか、とがみがみ文句を云われるのは目に見えている。遥希はそこまで考えてげんなりした。しかしここでラーメンのスープまみれの姿でぼうっと立っていても埒があかないのは明らかだった。

このへんにチャリ屋なんてある訳ないし……。何気なく視線をめぐらした遥希は、向こうに自転車店らしき店を発見し、首をかしげた。

こんなとこに店なんてあったっけ?
今まで何度も出前で通った道でありながら思いだせない。新しくできた店なのだろうか。そもそもその位置に建物があった記憶がないのだが……。工事中なら工事中で覚えていてもよさそうなものなのに、と不審に思う。

俺って、そんなにぼんやりしながら出前にいってたのかな。
少し自信を失くしながら、遥希は壊れた自転車を押してその店に近づいていった。

「変な名前」
店の屋根にある看板を見あげて遥希は小さく呟いた。『辺境自転車店』と看板には書いてある。辺境ってどういう意味だっけ、と遥希が考えていると、店の奥から声が聞こえてきた。

「兄ちゃん、あんた、入るのか入らないのか、どっちなんだ」
「え」
出てきたのは痩せ型のひょろりと長身の若い男だった。無精ひげだがいかつい感じではない。若いとはいっても自分よりは年上だろうな、と遥希は推測した。

「あ、えっと……」
「だーもう、はやくしろ。直さないと俺も帰れないんだから。俺だっていろいろ忙しいんだよ」
「はあ」
不服げに頷くと遥希は店主に云われるまま中に入った。ひったくるように自転車を奪われ内心むっとする。忙しいって、他には誰も客いないじゃないか。それに何なんだよ、俺も帰れないって。まだ昼前だぞ、店開けたばかりくらいだろうが。

心の中でひとしきり文句を云って、男の作業を黙って眺める。職種は違えど、ひとりで店をやっている職人に遥希は興味を覚えた。腕は悪くなさそうだ。壊れたブレーキのパーツをてきぱきととり外していく男の器用な手の動きを見つめながらそう思う。

「気になるな」
「あ、すみません」
ずっと手もとを凝視していたのが煩わしかったかと素直に遥希は謝った。
「そのにおい、どうにかならないのか」
「………」
そっちか。
「二階の一番奥に洗面所がある」
「は?」
「階段はそこだ」
店主が奥の暗がりを指さした。上の自宅とつながっているのだろう。遥希は慌てて胸の前で手をふって断った。

「いやいやいや、いいっすよ。いくら何でもよそ様のうちにあがり込むのは、ちょっと」
「何も風呂まで入っていけと誘ってるんじゃない。うちは銭湯じゃないからな。あんた、男なんだから洗面所でも髪ぐらい洗えるだろ。タオルとドライヤーは右上の棚にあるから勝手に使ったらいい。その間にブレーキは直しておいてやるから。あんたにそのにおいで横に立ってられると、こっちが作業に集中できないんだよ」
「はあ、じゃあ、遠慮なく……」
「ああ、そうしてくれ」

店主はそれだけ云うと、さっさと自分の仕事にもどってしまった。遥希はひょこっと首をすくめるように頭をさげると、云われたとおり静かにその場を離れて階段に向かう。うるさくすると怒られそうな気がしたからだ。

とはいえ、知らない人の家にあがるのはなかなかに緊張する。階段わきに子ども用の自転車が置いてあったから家族はいるのだろうが、遥希がおそるおそる二階にあがっても人の気配はなく、留守のようなのでほっとした。廊下の一番奥に洗面所があると男が云っていたのを思いだし、わき目もふらずまっすぐ進む。他人の家をあまりジロジロ見るものではないと思ったのだ。そういうところは遥希はまじめというか、小心者だった。

洗面所の鏡で改めて自分の姿を見るとひどいものだった。これじゃあ頭を洗うよう勧められるのも無理ないか、と遥希は思う。口は悪いが意外にいい奴なのかもしれない。遥希はありがたく洗面所を使わせてもらった。

てきとうに髪を洗い、ざっと流しただけでもだいぶさっぱりした。仕事着にしみついたにおいはどうしようもないが、それもお湯で湿らせたタオルを何度か押しつけるうちに少し薄らいだ気がした。帰ってすぐに洗濯すれば何とかなるだろう。

お言葉に甘えてドライヤーも借り、風邪をひかない程度に乾かしたあとに片づけて一階にもどろうとした。廊下にかすかにお香のようなにおいが漂っている。そういえば、さっきあがった時も一瞬鼻をかすめたみたいな気がしたが、自分のにおいのほうが強かったので気にならなかった。おばあちゃんちのにおいみたいだな、と思いながら階段をおりる。おりきったところで、お香じゃなくて線香だ、と気がついた。

「ちょっとは落ちたか」
背中で店主が訊ねてきた。
「あ、はい。大丈夫っす。助かりました」
「こっちももう終わる」
車輪を回転させてはブレーキのかかり具合を確かめているらしい店主の横に立つ。慣れた手つきに感心しながら、つい自分の仕事ぶりと比べてしまう。

「チャリ屋さん、何年くらいやってるんすか」
「あー、七年、だな。自分で店持ってからだと」
「なるほど。店を続けるコツって何なんすかね?」
店を継いで一年、客もどんどん減っていき、すでに挫折してしまいそうな遥希は同じ商売人として男に聞いてみたくなったのだ。
「コツなんてないさ。それにその質問、俺に訊くのは間違ってる。俺も一度は店を畳もうとした人間だからな」
「そうなんだ」

どうして、とやめようとした経緯を聞くのはさすがにためらわれた。はじめての客にプライベートな領域を根掘り葉掘り訊ねられても気分が悪いだろう。遥希は代わりに別の質問をした。

「でもこうして続けてるじゃないですか。それってやっぱり、仕事が好きってことっすか?」
「食うためだよ。残念なことに、生きていると腹が減るのさ」
「………」
「それに俺には他に何もないしな。悪かったな、つまらん答えで」
「いえ」
ぶっきらぼうな答えだが、それが正直なところなのかもしれないと遥希は思う。働かなければ食っていけない、だから、続ける。単純で明白な答えだ。雑談ついでにふと看板に書かれた店名が気になって遥希は訊ねた。

「それにしても、『辺境自転車店』って変わった名前ですね」
「……サカイ、だ」
「へ?」
「うちは『境(さかい)自転車店』だ。そんな名前じゃない」
「え、だって看板に……」
「違うといったら、違うんだ」
急に偏屈な頑固おやじのような口調で店主が否定するので、遥希もむきになって答える。

「じゃあ、看板見てくださいよ。さっき入る時、ちゃんと見たんだから」
「ああ? 見ようにも、俺は外には出られないんだ。だから無理」
「……?」
けんもほろろの云いかただが、まったく意味不明だった。だいたい店にきた時も帰れないとかどうとか、今も外に出られないってどういうことだ? 会話が成りたちそうで成りたたない、そのもやもやした感じがどうにも落ち着かない。遥希は憮然とした顔で云った。

「チャリ屋さん、さっきから何云ってるんすか。俺にも判るように説明してくださいよ。ひょっとして俺のこと、莫迦にしてます?」
「莫迦にはしてない、説明するのが面倒なだけだ。どうせ誰も信じやしないさ。兄ちゃん、あんたもごちゃごちゃ云ってないではやく帰ったほうがいい。修理は終わったんだ。出前の途中じゃなかったのか」
「あ」
そうだった、と遥希は青くなった。

連絡もしないで遅れたとなると、小塚さんに何を云われるか判ったものじゃないと慌てて携帯をとり出した。番号を調べようとスクロールしかけた人さし指がとまる。よりにもよって圏外とは。山奥ならともかく、こんな場所でありえないだろう。ということは携帯もどこかにぶつけたか、ラーメンのスープがかかったかして壊れたのかもしれない。急いで修理代を払い、床に置いたままだった岡持ちを手にした。

「ありがとうございました」
礼を云い、自転車を受けとった。その時店主がちらりと岡持ちを目にして云った。

「あんた、春来軒の人だったんだな」
「そうですけど」
「大将は元気かい?」
「あ、えーと……」
訊かれて一瞬言葉に詰まる。

「大将、亡くなったんですよ。それで俺が跡を継いだんです」
「そうなのか、知らなかったな。しばらくいってなかったから……。で、いつ?」
「一年くらい前になりますかねえ」
「一年?」
店主が目を丸くし、訊き返した。

その驚きかたが遥希にはひっかかった。大将が亡くなったと告げた時よりも驚きのリアクションが大きいように感じたのだ。一年前だからどうだというのだ。どうもこの男とは最初から最後までうまく会話が噛みあわないままだったな、と思う。まあいいや、それよりはやく店に帰ってラーメンをつくり直さなきゃな。気をとり直して遥希は自転車をこぎ、急いで店へと舞いもどった。

店の前に自転車をとめ、ドアにかけた出前中の札を外そうとした遥希は聞き耳を立てた。どうも中で物音がしたような気がしたのだ。待ちきれずに入った昼の客かとも考えたが、札をかけているのにわざわざ入ってくるほどのなじみの客もいない。

もしかして、泥棒?
それならありえる。店主が留守のすきにレジから金をもっていこうと入ったのかもしれない。遥希は慌てて警察に電話しようとポケットに手を入れかけたが、携帯が壊れていたことを思いだし、チッと小さく舌打ちをした。
勘違いってこともあるしな。

近所に駆け込み大騒ぎして警察を呼んだ挙句、勘違いだったら恥ずかしい。ひとまず自分の目で確かめてみようとゆっくりとドアノブをひき、すき間から覗き込んだ。物音はレジのある入り口付近ではなく、厨房のほうから聞こえてくるようだった。昨晩から仕込んだスープの入った寸胴の前に誰か立っている。何をしているのだろうか。遥希はぐいっと身を乗りだし、上半身を中に入れた。

湯気で顔はよくは見えないが、その背中に見覚えがあった。あるも何も、遥希が知っている限りで、この厨房が誰よりも似あう人物といったら大将しか考えられなかった。

「大将、死んだ筈じゃ……」
呆然と呟いた。ドアを開け、中に入る。間違いない、大将だった。背後から近づいても、大将はこちらをまったくふり返ろうとはしなかった。遥希の声が届いていないのか、大将は黙々とスープの仕込みの準備をしているところだった。

「あれ、俺のつくったスープは?」
大将の肩越しに覗きこむが寸胴の中身は空だった。まるではじめから何も入っていなかったかのようにきれいに磨かれている。大将はやはり無反応なまま、自分の作業に没頭しているだけだった。

幽霊、なんだよな。
そうとしか考えられない状況だが不思議と怖くはない。なつかしいなあ、そう思っただけだった。バイトをしていた頃はまさか自分が継ぐことになるとは考えもしなかったから、大将が仕込む姿をぼんやりと横目で眺めているだけだった。倒れてからの大将は長時間厨房に立っていることが難しくなり、遥希もつきっきりでスープづくりを教わることはとうとう叶わなかったのだ。

これはチャンスかもしれないな。
たとえ言葉を交わすことはできなくても、横でつぶさに観察していれば大将のスープづくりを学ぶことができる。隠し味が何なのかさえ判ればしめたものだ。もしかしたら大将のほうも、自分に隠し味を伝え忘れたことが心残りでこうして化けて出てきてくれたのかもしれないとさえ遥希は思う。

材料の野菜や肉の骨髄、いりこの量をチェックする。それから火加減水加減、OK、ここまではレシピどおりだ。
さあ、こい。隠し味。

遥希は前のめりになって大将の手もとを凝視する。これだけ近づいても大将は気づかない。試しにそっと肩に触れようとして伸ばした手は呆気なくその身体を素どおりした。どういう理屈か判らないけれど、遥希は今、大将のいる世界と自分のいる世界を重ねあわせて見ているのかもしれないと思った。

通常ならこの先は時間をかけて煮込んでいくだけだが、もうひと味何か足すとしたらここしかないだろう。そんな遥希の狙いを定めたような視線を知らない大将はのんびりと、お玉片手に丁寧にあくをすくっては捨てていく。そろそろか、と身を乗りだしても、さっきから大将がやる作業は変わらない。あまりに変化がなくて退屈になってきた。それでも隠し味を入れるタイミングを見逃してはならないと、遥希は大将の背中にべったりと背後霊のようにへばりついた。

どれくらい時間が経っただろうか。
大将は寸胴の中を覗き込んで満足そうに頷いた。これは大将がいつもしていたスープのできあがりの合図だと遥希は知っている。

そんな……。
今見たものの衝撃と、長時間見続けた疲れが一気にやってきたのか、遥希は頭がくらくらしてきた。と思ったら、急に目の前が暗くなり、立っていられないほどのめまいに襲われた。
やばい、貧血……。
移動する間もなく、遥希はそのままずるずると床に倒れ込んだ。

「遅い」
玄関のひき戸を開けた途端、お決まりの文句が飛ぶ。いつもだったら軽く無視して岡持ちを開けるところだが、遥希は首をすくめ「すみません」と小さく呟いた。おそるおそる岡持ちからラーメンをとり出すと、仁王立ちしていた小塚さんがさっそくレンゲを手に持ちスープに浸してから、上目遣いでこっちを見てきた。

「何だい?」
「……いえ」
遥希のおどおどした態度が気になったのか、ひとくち口にする前にそんな風に訊いてきた。遥希は遥希でスープの表面に湯気が立っているのを不思議そうな何とも云えない目つきで見ている。
いったい、あれは何だったんだ?

幽霊の大将のスープづくりを盗み見ている最中に貧血で倒れたと思ったのに、気づいた時には遥希は自転車にのったまま静止していた。場所はあの坂道の下で、おまけに岡持ちを片手に提げていた。慌てて中を確認するとラーメンのどんぶりがひとつ、店を出た時と何ら変わらぬ姿で鎮座しているではないか。

試しにペダルをまわしてブレーキがかかるかやってみる。ちゃんとかかった。それも気のせいか前よりかかりがよくなったような。ブレーキをかけるたびにキーと耳障りな音が響いていたのがそれもなくなっていた。

白昼夢みたいなもんだったのかな。
考えてはみたが、それだけでは説明できないものが遥希の中には残った。しかしぼんやり思考をめぐらしている場合ではないことに気づき、急いで出前を届けるべく小塚さんの家に向かったのだった。

坂道の下で立ち往生していた時間がどれくらいのものか判らなかったから、もしかして麺が伸びてしまっただろうかと心配だった。岡持ちから出す時緊張していたのはそのためだ。見た目はそう変化がないように感じたが、スープを飲んだ小塚さんに「ぬるい」と怒られるのではないかと内心びくびくしながら見守った。小塚さんはレンゲを口に運び、スープをごくりと飲み込んだ。顔をしかめて云い放つ。

「まずい」
「……よかった」
安堵のあまり、つい口に出してしまったことに遥希は気づかなかった。「まずい」と云われるのは毎度のことだから慣れていた。とにかくスープは冷めていなかったということだ。それで安心してしまったのだ。

「何が、よかった、だ。まずくていい訳ないだろ」
「あ、いや……」
苦虫をかみ潰したような顔で自分を見ている小塚さんに気づき、遥希は慌ててごまかした。けれども小塚さんは失言を許す気はないようで、さらに云い募った。

「だいたい、あんた、いつになったらまともなラーメンをつくれるようになるんだい? このままじゃあの店潰れちまうよ。そんなことになったら大将に申し訳が立たないって、どうしてそういう風に思えないのかねえ」
「そりゃ俺だって思ってますよ」
痛いところを突かれ、思わずむきになって云い返す。

「だったらちゃんとすればいいだろ」
「だって、無理なんすよ」
「無理って何が?」
「だって……」
遥希は「だって」をくり返した。急に自分が小さな子どもになった気分に襲われて、鼻の奥がつんとした。

「だって、隠し味なんてなかったんだから……」

あんなに目を皿のようにして観察し続けたのに、大将は何も足さなかった。見落としてはいないと断言できる。だからこそ、遥希はもうどうしていいのか判らなかった。自分と大将の何が違うのか、教えられたとおりつくっても、これからもまずいと客に思われ続けるのかと考えると店を続けていく自信さえ失いそうになるのだった。肩を落としてうなだれる遥希を見て、小塚さんは梅干しでも食べたかのような顔をして一瞬沈黙し、それから豪快に笑いだした。

「あんた、莫迦だね」
「何なんすか、もう」
「あの実直な大将が自分の店を継がせるあんたに隠したりするもんか。きっと材料は同じなんだろうよ。けど、あんたのは雑味だらけ。大将のつくるスープはもっと丁寧な味がした。つまりあんたに足らないのは真剣味(しんけんみ)ってことだ」
「真剣……味」
遥希はぽかんと小塚さんを見返した。思いもよらない解答だった。自分は今まで一度もそんな風に考えたことはなかったと遥希は思った。

大将のうしろ姿。
さっき見てきたばかりの背中を遥希は思いだした。きれいに磨きあげられた寸胴、材料を扱う繊細な手つき、丁寧にあくをとり除き続ける根気と努力……。大将は一切手を抜いていなかった。そうと感じさせないほど自然にあの場に溶けこんでいたから、自分はそれに気づかないまま漫然と一緒の時間を過ごしてきたのだった。

俺は大将と同じことをしていると思い込んでいたのか……。
同じ材料、同じ分量でレシピどおりつくれば同じものができる筈だと疑わなかった。遥希は小塚さんにそのことを指摘されて目の醒める思いがした。

「俺、莫迦っすね」
「だからそう云ってるだろ」
「はあ」
ため息のような返事をする遥希を小塚さんは呆れ顔で見つめて云った。

「情けないねえ、まったく。これじゃあ、うまいラーメンを食べられるのはまだまだ先ってことだね」
「でも俺……やりますよ。すぐにとは云わないけれど、そのうち、きっと」
春来軒は俺の店なんだから、と遥希は思う。少し背中の曲がりはじめた大将の小さな背中が今はとてつもなく大きく感じる。でもいつかそれを超えなければいけないと遥希は自分に誓った。

「それまで味見してくださいね、小塚さん」
「まあ、あたしが生きてるうちならね」
「長生きするっすよ、小塚さんは」
憎まれっ子世にはばかるって云うしな、とこれは胸のうちにおさめておいてにっと笑うと、遥希は岡持ちを手に元気よく飛びだした。



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mugiko
広島生まれの広島育ち。ありがたいことに片島麦子の名前で本を何冊か出していただいています。
『銀杏アパート』『想いであずかり処にじや質店』など。
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