第4回 BUNCAコンペ小説部門入賞作品「辺境自転車店」#1- mugiko -

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第4回、BUNCA Competition「小説部門」で見事 最優秀賞に選ばれた、mugikoさんによる「辺境自転車店」<1>がついに公開です!とある自転車店で次々と不思議な出来事が起こっていく。「辺境自転車店」4回まで続きます!

<1>

桜子は真夜中の道をひた走っていた。自転車を立ちこぎしながら。

目的地はない。ただ走る、それだけだ。耳もとで風がうなりをあげ、流れる涙を乱暴に叩いてゆく。乾いた目尻が痛い。太腿もぱんぱんだ。立ちこぎなんて中学生の自転車通学以来だからあたり前だ。あれから何年たった? 倍近く生きて、大人になって、一番大事なものを失って、頭をからっぽにして眠るためだけに自転車を立ちこぎする、なんて莫迦なわたし。

眠りたい……んだろうか?
この三週間、桜子はろくに寝ていなかった。会社にいっている間はまだマシだった。そこでちゃんと仕事ができているのかは甚だ疑問だけれど。でもいかなければ、すぐに桜子は圭でいっぱいになってしまう。圭のことだけを考えていたいのに、はちきれそうな自分に耐えられなくなってしまう。

圭、圭、圭……!
ほんとうに眠りたいのは圭の隣でだけだ。どうしてあの時、わたしは一緒にいなかったのだろう。澄んだ水の中へ、ともに流されていけたならどんなによかっただろう。それから何度暗い川面を見つめても、身を躍らす勇気は桜子にはなかった。あの流れの果てに圭はいない。圭の身体は燃やされた。大切な人をのせた棺が無情にも白い扉の向こうに消えていくのを呆然と見送ることしか自分にはできなかったのだから。

「きれいな顔をしておられますね」

通夜の弔問客が入れかわり立ちかわりやってきては口を揃えたように云い、どこかほっとした顔つきになった。桜子が圭の恋人であることを知る人たちは、受け入れがたい現実を直視できずにぼんやりと突っ立っている彼女に、親しみと同情を込めたあたたかな言葉をかけてくれた。

「圭らしいっちゃ、圭らしいよな」
「やさしいんだよ、圭くんは。とっさに助けなきゃって思ったんだよ」
「俺だったらできなかった。あいつはやっぱ、すごいやつなんだ」
「桜子ちゃんを置いてさ、ひとりで逝っちゃうなんて、莫迦だよな、ほんと」

みんなから愛されていた圭。きれいな顔ときれいな心の持ち主は、皮肉なことに神さまにも愛されて誰よりもはやく天に召されてしまったのだ。
その時、両親に手を引かれながら小さな男の子がやってきた。

幼稚園の制服なのだろうか、紺色の半ズボンにまっ白いシャツ、小さな蝶ネクタイをつけている。男の子はその蝶ネクタイをいじりながら下を向いてもじもじしていた。

「ほら、卓也。お兄ちゃんにごあいさつしよう」
「たっちゃんを助けてくれたお兄ちゃんだよ。ありがとうって」
まじめそうな両親は熱心にそう云って、男の子を棺に近づけようとつないだ手をとってやさしく引いた。

「やだ!」
幼いながらてこでも動かないという意思を感じさせる鋭い声に、一瞬その場が凍りついた。

「やだ、怖いもん。おうちに帰りたい。怖いよう、おうちに帰りたいよう」
男の子はそう云ってぐずぐずと泣きだしてしまった。

申し訳ありません、と両親は青ざめた顔で周囲に詫び、それから父親のほうが圭の両親のところに駆け寄り深く頭をさげた。幼稚園児に人の死を理解させるのは難しい、そんなことは桜子も頭の中では判っていた。けれども、気づいた時にはふらふらと母親の隣で泣きじゃくる男の子の前に出て、その子をぼんやりと見おろしていた。

圭が怖いって、この子は今そう云ったのか。職場主催のバーベキューで、圭は川に流されたこの男の子を助けて溺れ死んだ。なのにその圭を怖いと泣くなんて。誰のせいで、こんな……。

「……圭はね、もうおうちに帰れないのよ」
自分でも聞いたことがないような低い声だった。男の子がひきつった表情で桜子を見あげる。どうしてわたしの顔までそんな目で見るの、そう訊き返そうとした時だった。

「やめて、桜子ちゃん!」
遠くから圭の母親の叫ぶ声が聞こえた気がした。続いて後方から力が加わり身体が動かなくなる。誰かに羽交い絞めされているのだとやっと気づいた。いつの間にかふりあげていた右の手のひらが虚しく空をひっかいていた……。

はちきれそうな身体で桜子は自転車をこぐ。時に叫び声をあげ、信号を無視し、夜につっ込む。目的地はない。あるとすれば圭のもとだ。けれどもどうやっていけばいいか判らない。判らないから眠らなければ。朝がきてしまう、それまでに。なるべく何も考えない。眠ることだけを願って、このはちきれそうな身体をなだめすかせるために、こいでこいでこぎまくる。やがて疲れが眠りを無理やりにでもひきずってきてくれるだろうから。

橋が見える。湾曲したライン。ここからでもアップダウンが激しいのが判った。桜子はぐっとペダルを踏む足に力を込めた。そのまま立ちこぎで一気にのぼる。

橋の上では横殴りの強い風が吹いていた。ハンドルをとられそうになりながらも負けずにぐんぐん進む。やがてくだり坂になっても桜子はそのスピードを緩めなかった。ブレーキをかけず、こいでいく。頬を切るような冷たい風。でも桜子にその冷たさを感じる余裕はない。眠らなければ、眠らなければ……。

がくん、と大きな衝撃音と同時に、前輪がおかしな具合に動きをとめる。パンクだ、と気づいた瞬間、桜子の身体はぽおんと前方に自転車ごと投げだされていた。

ああ、これで。
眠れる(死ねる)ーーと思った。

ハンドルとフレームの一部を痛む両腕で支えながら、のろのろと後輪だけで前に進む。絶望的に遅い。ここがどこかも判らないまま、桜子は真夜中の道をさまよっていた。自転車をその辺に放りだしてさっさと帰ってしまえばいいという考えもちらりと頭に浮かんだが、ものとはいえ置きざりにされるのはかわいそうすぎると考え直した。ちょっとだけ今の自分と重ねてしまっているのかもしれない。

どれだけ倒れていたのか知らないけれど、橋のたもとの道路にはその間、ただの一台も車は通らなかったようだった。それを幸運と云っていいか、不運と云っていいか、正直桜子には判らなかった。もしタイミング悪く(もしくはよく)車がきていれば、桜子は希望どおり永遠の眠りにつけたかもしれない。だけど車どころか人っ子ひとりいないこの状態では、眠りにつくことはおろか、誰かに助けを求めることさえできないのだった。となればあとは自分でどうにかするしかないではないか。

とはいえ、どうしよう。こんな夜中に開いている自転車店なんてある筈がない。桜子は途方に暮れてしまった。やはりこの時間でもやっているコンビニか何かを探し、事情を話してひと晩自転車を置いてもらうほうが現実的かと考える。それで明日の会社帰りにとりにいくしか方法はなさそうだ。ただ問題は、さっきからコンビニらしき灯りのついている店舗が視界にまったく入ってこないことなのだ。

身体の節々が痛い。転倒した際に打ったと思われるが、暗くてどの程度の怪我を負ったのか、自分でもよく判らなかった。まあ片輪だけの自転車を抱えて歩けるぐらいだから、そこまでひどい怪我はしていないようだと桜子はいくぶん投げやりに判断する。自分の身体なんか、別にどうなったっていいのだ。このあたりでいき倒れてしまえるなら、それならそれでかまわない。いっそそうあってほしいと思う。圭のいない世界に自分がいる意味を桜子はずっと見いだせないでいた。けれどもそこから去るのが正解なのかもまた、判らないでいるのだった。

……迷子なんだな、わたし。
とぼとぼとやっとこ歩を進めながら、桜子は心の中で呟いた。だいたいここはどこなのだ。どうして開いている店が一軒もない訳?今の時代、コンビニなんて意識しなくてもすぐに見つかると思っていたのに。呟きが愚痴に変わりはじめた頃、遠くにぽつんと灯りがついている店が目に入った。近頃のコンビニのようなLEDのはっきりと目立つ灯りではなさそうだが、ともかく事情を話して置かせてもらうしかないと桜子はその灯りを目指して歩いていく。

そして近づくにつれ、その店が何の店なのか桜子にもおぼろげながら判ってきた。壁にかけられたタイヤやさまざまな形や色をしたフレーム、細々とした工具類が作業場のようなスペースに無造作に置いてある。はじめはまさかと目を疑ったが、やはり間違いない。あれは自転車店だ。

こんな真夜中に自転車店なんて……。
ほっとするより先に訝しんだ。何だってこんな辺鄙でコンビニもなく、表通りからも離れていそうな場所で夜中に自転車店を開く必要があるというのだろう。それともあれは自転車好きのオーナーが経営する飲み屋か何かで、壁にあるのはただのディスプレイという可能性だってあるんじゃなかろうか。

桜子はなかば強引に推理してはみたがどうもいまいちだ。ともかく自分にとって今必要な店が目の前にあり、あたりを見渡しても他に開いている店はないのだからいくしかないのだ。そう心に決めると店の中を覗きこんだ。

「あの、すみません」
おそるおそる声をかけると、奥のほうから突然人影がぬっと現れた。ぼさぼさ頭に無精ひげを生やした作業着姿の男だった。年は自分とそう違わなそうだ。この店の店主とおぼしき男はくわえタバコのまま、にこりともせず云った。

「……ああ、いらっしゃい」
ちらりと自転車を一瞥すると、こっちに寄こせというように左手首をくいと上向きに折り曲げた。まるで野良猫を呼ぶような仕草に内心むっとしながら桜子は自転車を店主にあずける。

「パンクだと思うんですけど……」
「見れば判る」
にべもなく返され、今度こそむかついた。きっと顔にも出ているだろうと思う。

「それにしても、派手にやったもんだな」
タバコを薄い唇から外し、店主はそう云って桜子の顔を見た。
「はあ」
「あんたのことだよ」
にやり、と無表情だった店主の顔にやっと表情らしきものが浮かぶ。
「……え」
云われて桜子は改めて自分の恰好に目をやった。汗だくで頬にはりついた髪、素足に履いた汚れたスニーカー、よれよれのスウェットには転んだ時に怪我したらしくところどころ血がにじんでいる。おまけにすっぴんだったということを思いだし桜子は青ざめた。男の風体をどうこう云える立場ではないことに気づいたのだ。

店主は「ちょっと待ってろ」と云い捨てると、現れた時と同じように店の奥にふいっと姿を消した。どうやらそこに店舗兼自宅の階段があるらしかった。再びもどってきた店主の手には救急箱が握られていた。

「俺は自転車を修理する。あんたはそこで自分の修理をしてろ」
手に持った救急箱をぶんとふり、店主がさし示したのはスチール製の丸椅子だった。ここに座って傷の手あてをしながら作業が終わるのを待っていろと云いたいのだろうと桜子は解釈した。態度はぶっきらぼうだが案外親切かもしれない。素直に頷いてから桜子は男の手から救急箱を受けとった。

店主が作業にとりかかると、桜子は椅子に腰かけ救急箱を開いた。きれいに整理された薬びんや包帯を見て、ちょっと意外な感じを受ける。床や棚に散乱した工具類からして、男はあまり整理整頓が得意なほうではないのだろう。自分の見てくれにも無頓着なようだし、パンクしたチューブをとり出して直す手つきはさすが職人とあってあざやかなものだけど、かといって片づけがうまいとは限らない。救急箱の中身をとりやすく、かつ判りやすく分類したのは誰か別の人物、それもたぶん女性だろうと桜子は見当をつけた。

消毒用エタノールのびんを見つけ、チャックつきのビニール袋に小分けされた乾綿に浸した。ひたひたになったそれをまくりあげた裾から顔を出したひざ小僧に押しつけると、思ったよりも沁みてつい声を出しそうになる。何とかこらえて足のすり傷にもちょんちょんとつけていく。手のひら、両ひじと見事に傷だらけの自分にため息を吐きそうになりながら順に修理を終えると、エタノールのびんを箱にもどそうとして手をとめた。並んだ薬の中に子ども用の薬がいくつか混じっているのに気づいたからだった。

奥さんと子どもがいるのか。へえ、と思いつつ、何となく周囲を見渡した。すると店主が消えた階段の横の暗がりに、補助輪つきの赤いキッズ用自転車が置いてあるのが見えた。明らかに売りものとは違うようだ。

「お子さん、いるんですか」
「いたら悪いか」
外したチューブを水のはった大きなたらいのようなものに入れ、パンク箇所から空気が漏れるのを確認しながら下を向いて店主が答えた。

「別に。ちょっと訊いてみただけです」
「修理、終わったのか」
それはこっちの台詞でしょう、と心の中で云い返す。

「ええ」
答えると、桜子のほうをふり返って、トントンと無言で額を二度人さし指で叩いた。何の合図かとしばし考え、思いついて消毒綿を自分のおでこにあててみる。

「いっ、つ……」
油断をしていたためか、つい声に出てしまった。額を押さえて痛がる桜子を店主がおもしろそうに見ているのが癇に障った。

「口で云ってよ、もう」
「悪かったな」
「それで、お子さん、何歳ですか」
「しつこいな、あんた」
「これはただの会話のキャッチボール……ううん、違うか。わたし、ほんとうは誰ともしゃべりたくないんだった」
「じゃあ、黙っとけばいいだろ」
「痛みを忘れたいの、だから少しだけつきあって」
桜子の切実な口ぶりに額の傷以上の何かを感じとったのか、店主は小さくため息を吐くと仕方なさそうに答えた。

「五歳だ」
「そう、五歳……あの子と同じなんだ」
圭が助けたあの子。わたしが殴りつけようとしたあの子。圭の代わりに生き残った……あの子。そんなことを考えながら、桜子はいつしか圭の事故のことをぽつりぽつり店主に語りはじめていた。

「わたしはね、圭のお葬式の時にその子を殴ろうとしてみんなにとめられたの。ひどい大人だよね。助かってよかったねって云ってあげるべきだったんだと思う。でもだめだった。あの時は圭の棺の前で怖いって泣きだしたあの子が許せなかったから、それで手をあげたんだと思っていたけれど、あとでよく考えたらそうじゃないって気づいちゃった。わたしは単にあの子が生きていることが許せなかった。わたしの大事な圭を死に追いやって、そうやって大粒の涙を流して泣くことができる、目の前のあの子の存在そのものが許せなかったのよ」

「………」

「圭は心がきれいな人だった。きっと目の前で溺れているあの子を助けずにはいられなかったんだって判ってる。そういう圭が好きだったけど、わたしは自分がそっち側の人間じゃないことに気づいてしまった。たった五歳の男の子に死ねばいいって本気で思える人間なのよ、わたし」
自嘲気味にしゃべる桜子の話を背中で聞いているのかいないのか、黙って作業を続けていた店主がぼそりと云った。

「殴ってやればよかったんじゃないか」
「え?」
「殴って、髪の毛つかんでひきずりまわして、ごめんなさいって床に額こすりつけて謝るまでやればよかったんだ。それであんたの気がすむのなら」
「いや、何もそこまでは……」
たんたんとしゃべる店主の口調に桜子のほうが少しひき気味になる。これが同じ五歳の子をもつ父親の云うことだろうか、と思いながら。

「結局さ、そこまでしても気なんてすまない、だろ? 死んだやつは生き返らない。ただそれを思い知らされるだけさ」
「………」
答えられなかった。男の云うことがたぶん正解なのだろうと桜子にも理解できたから。

何をどうしたって、圭の死を思い知らされる日々がこの先も続くのだろう。果てしない苦しみが薄れる時がくるのか、今は考えられない。店主の言葉は何のなぐさめにもならないし、向こうもなぐさめようだなんてこれっぽっちも思っていない筈だ。店主の言葉はひとつの真実として桜子の胸に刻まれただけだった。

「ほら、できたぞ」
「あ、ありがとう」
すっかり修理の終わった自転車を差しだされ、桜子は慌てて礼を云った。

「修理代は?」
「ああ、そうだな」
桜子の問いに店主はざっと頭のてっぺんから足の先まで視線を走らせると、「まあ、いいか」と答えた。

「いいかって何? ちゃんと払うわよ」
かわいそうな女だと値踏みされるのは心外だった。

「じゃなくて、あんた、財布もってるのか」
「え……」
云われて桜子は、しまった、と手で口を押さえた。スウェットのポケットには家の鍵しか入っていないことを遅まきながら思いだしたのだ。自転車をこぎだす時はいつもそうだった。衝動的に家を飛びだし夜をひた走る。そんな桜子に財布も携帯も必要なかった。

「どうしよう。ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったんだけど」
「判ってる。だからいいって云ってるだろ」
「地図」
「何?」
「地図書いて。それとここの住所。後日払いにくるから」
「………」
店主は腕組みをしたまま動かない。黙って眉間にしわを寄せると何事か考えている様子だった。

「何、もしかして疑ってるの?」
「そう云って、ほんとうに払いにきたやつはいない」
「だから絶対くるってば。きっちり耳を揃えて返すって約束する。他の誰かさんと一緒にしないで」
「いや……」

ここにきてはじめて男が云い淀んだ。いったい何が云いたいというのだろう。一瞬、複雑な表情で店主がこちらを見返したように見えたが、桜子の勢いに押されたのかそれ以上何も云わず、近くにあったメモ用紙にボールペンで店の地図を描きはじめた。

「これでいいか」
うん、と頷き、ポケットに大事にしまった。

「じゃあ、今夜はこれで。ありがとう、助かりました。約束は必ず守るから」
そう礼を云い、桜子は真夜中へと再びこぎだした。

自転車は快調だった。パンクと一緒に両方のタイヤの空気も入れ直してくれたみたいだ。そういえば変形していた前カゴもいつの間にやらもとにもどっている。店主は無愛想だったが、修理の腕前は確かなようだった。

乗り心地の数段軽くなった自転車とは裏はらに、店を離れた桜子の心はゆっくりと重くなっていった。この自転車でどこへ向かえというのか、目的地のない自分がひどくみじめに思えてきたのだ。ついでにわたしも修理してくれたらよかったのに。いくぶんやつあたり気味に心の中で愚痴りながらペダルを踏む。自分のことは自分で修理しろなんて、それができてたらこんな夜中にすっぴんで立ちこぎなんかしてないっつうの。

そんなことを考えつつも、そろそろ家に帰らなければいけないと桜子は思う。明日がくる、朝がくる、それはおそろしいことだけれど、生きている限りは仕方のないことだと諦める。とりあえずきた道をもどれば知った道に出る筈だった。このまままっすぐ進めば転倒した大きな川にかかる橋にたどり着く。それを越えればあとは何となく判るだろうと思った。

自転車をこいでしばらくすると、うっすらと空が白んできた。あまりにもはやすぎる夜明けに桜子は焦った。今が何時か確かめようにも携帯をもっていない。自転車店でそんなに何時間も過ごした感覚はなかった。ひょっとしたら橋のたもとで転倒した時に意識を失って、自分でも知らないうちに時間が経過していたのではないかとも考えた。けれども桜子があれこれ推理をめぐらしている間にも、どんどん空は明るくなっていく。もう朝というよりも昼に近い明るさだった。

「……嘘でしょ」
こんなことは信じられない。呆然と立ちどまりそうなものなのに、なぜだか足は勝手にペダルをこぎ続けている。はやく家に帰らないといけないという思考が無意識に働いているからだろうか、と桜子は他人事のように考えた。

ともかく川を目指そう。混乱しそうな頭をその一点に集中させる。そうでないと叫びだしそうな気がした。真夜中ならすぐにでもそうしただろう。けれどこんな明るい陽ざしのもとで、むやみやたらと叫ぶ訳にもいくまい。川よ、川。周囲の景色には目もくれず、桜子はそれだけ考えて走った。途中、自転車がガタガタしはじめたのでまたパンクかと焦ったが、下を見ると道が砂利道になっている。こんな舗装されていない道があっただろうかと桜子が訝しんでいるうちに、道は砂利から凸凹した山道のようなものに変化していった。慌ててブレーキを踏み周囲を見渡すと、あたりはすっかり自然に囲まれた見慣れない景色に変わっていた。

「ここ、どこ?」
急激な不安に襲われる。自分が走っていたのは平地で、どちらかというと海に近い道路だった筈だ。ここはどう見ても風光明媚な山の中、しかも時刻は昼日中ときた。訳が判らず、桜子は狐につままれたような心持ちで立ち尽くした。

楽しそうな人々の声が風に運ばれ耳に届く。それとかすかな水のにおいと。近くに誰かいる。桜子はほっと胸をなでおろした。事態が急で理解が追いつかないけれど、助けを求める相手がいるのはありがたかった。これで家に帰れる。眠れるかどうかは別にしても。桜子は耳を澄まし、声が聞こえる方向に自転車を押しながら歩いていった。

声が近づいてくるとともに川のせせらぎも聞こえてきた。木々の間から顔を覗かせると、川原でバーベキューをしている人々の姿を確認できた。子どもの姿も見えるから仲のよい家族同士の集まりか何かだろうと考える。流れている川は浅く、もちろん大きな橋がかかったあの川とはまるで違う。透明で澄んだ水の川底に泳ぐ魚の影がここからでも見えるほどだ。

もう少し近づいたところで桜子は首をかしげた。何か違和感を覚えたのだ。いや、既視感か。バーベキューを楽しむグループの顔に見覚えがあるような気がしたからだった。しかし笑っている彼らの表情から誰であるかを思いだそうとしてもできなかった。気のせいかと気をとり直し、ごろごろする川原の端に自転車をとめてから大股で近寄っていった。

大人たちがバーベキューの準備をする横で子どもたちが遊んでいる。鬼ごっこやバドミントンをしているのは小学生ぐらいの子たちだった。その輪に入れず幼稚園ぐらいの男の子がひとり、青いビニール製のボールを空に向けては投げて遊んでいた。とり損ねたボールを追い、桜子の視線の先を横切っていく。

ボールが川に落ちた。それでも男の子は諦めずに追っていった。川遊びができるくらいの浅瀬なのだからすぐに拾えば問題なかったのかもしれない。けれども水に濡れたボールは男の子が手を触れようとすると生きもののようにするりと逃げていく。このままでは危ないのではないかと桜子は心配になった。

「あのっ、誰か。子どもが!」
声を張りあげても大人たちは気づかない。はやくボールを諦めてもどってきて、と桜子はやきもきしながら男の子を見守った。しかし、子どものほうはボールしか見ていないのか、どんどん川岸から離れていき……一瞬姿が消えた。

「大変!」
男の子の顔はまた浮かんではきたが、不規則に上下し、溺れているのはもう間違いなさそうだった。一刻の猶予を争う状況にもかかわらず、大人たちはあいかわらず自分たちの作業に夢中で気づく様子はまったくない。そこまでいって誰かをつれてくる間に男の子は流されてしまうだろう。

助けなきゃ。
迷っている暇はない。桜子は駆けだした。自分が怪我をしていたことも、泳ぎにあまり自信がないことも頭からふき飛んでいた。間にあって、とただそればかりを祈るように胸の中でくり返す。

川の水は思った以上に冷たかった。川底の丸い石に足をとられそうになりながら、必死に前に進む。足首からひざ下、ひざ上へとなると一気に足が動かしにくくなってきた。男の子はゆっくりと、けれど着実に川の中央に向かって押し流されていく。桜子も意を決して足を浮かせた。胸から浸かり、手で水をかく。男の子までの距離が縮まり、その表情が見えた。あの子だ……と判った瞬間、川原にいたグループが圭の会社の仲間だと思いだした。通夜や葬儀でかなしみに沈んだ顔しか見ていなかったから、すぐに結びつかなかったのだ。

どうして、あの子が……?
目の前で何が起こっているのか、桜子には理解できなかった。わたしがいる今はいつなの? これはあの時間なの? もしそうだとすれば川原には圭がいたのかもしれないと思うとふり返りたくなった。
ほんの一瞬目を離したすきに男の子の顔が水面から完全に消えた。

慌てて桜子も水にもぐる。届きそうで届かない距離がもどかしく、何度も手を伸ばすが男の子に触れることはできなかった。もうだめ。圭、助けてーー。意識が遠のきそうになる。このまま男の子も救えず、流されていくならあんまりだと思った。せめてあの子だけでもと考えた時だ。大きな黒い影が悠然と桜子の目の前を横切った。巨大な魚かと思えたそれは、なつかしい圭の身体だった。

「圭!」
水中で叫んでいた。

「桜子、安心して。あの子はぼくが助けるから」
圭もまた、水の中でもふだんどおりに話していた。そういえば桜子も呼吸が全然苦しくないことに気がついた。

「ありがとう、圭。でも……」
あの子を助ければ圭が死ぬ。それを伝えていいものか、桜子には判らなかった。

「いいんだよ、桜子。これで君も判ったろう? 君だってあの子を助けようとした。助ける側の人間なんだよ、君は。そしてぼくはそういう君のことがとても好きだった」
「圭……」
やさしい圭の言葉に胸がつまる。

「今までありがとう、桜子」
「待って、圭。あの子を助けても、わたしを追いていかないで」
「それは無理だよ」
ほんの少しだけかなしそうに圭が首をふった。

「じゃあ、連れていって。あなたと一緒にわたしもいく」
そうよ、そうすればいいんだ。これで迷子にならないですむと、桜子はやっと正解にたどり着いた気がした。腕を伸ばし、圭にしがみつく。圭は逆らわなかった。桜子の肩を抱き、ひき寄せた。冷たい唇が触れたと思った瞬間、圭は桜子の両肩を強く押した。

「桜子、君はまだきちゃいけない。そんなこと、ぼくは許さないよ」
きびしく、そしてとびきりの愛情に満ちた拒絶の言葉。

「け……」
言葉を発しようとすると途端に息が苦しくなった。生きているからだ、と桜子は思った。圭の口づけで桜子は新しく生命(いのち)を与えられた。この先の未来を生きたかった圭のぶんを。みるみる離れていく圭の身体をのせた流れとは別の流れに、桜子はなすすべもなく呑み込まれていった。

数日後、自転車店の店主にもらった地図を頼りに桜子は出かけていった。

パンクを直して店を出てからのできごとは、今でも何だったのかよく判らない。圭に会えたと思ったけれど、あれがほんとうにあったことだったのか、それとも夢だったのか、何度考えても結論は出なかった。別々の流れに分かれていったあと、桜子は水の中で気を失った。そして目が覚めた時には自分の部屋のベッドの上だったのだ。あんなに眠れたのはひさしぶりというくらいのすっきりとした目覚めだった。

すべてが夢であったのなら、それはそれで説明がつきそうだと考えた。けれど起き抜けの顔を映した洗面所の鏡には、おでこをすりむいた情けない表情の自分がいた。よれよれのスウェットのポケットを探ると、くしゃくしゃになった店の地図が出てきた。不思議と水に濡れたようなにじみの形跡はなかった。

では途中から夢を見ていたのか。真夜中の道を立ちこぎする、その道程のどこで眠ることができるというのか、ベッドで眠って見たにしろ、どうやって家に帰ったのか覚えていないなんておかしな話ではないか、そう考えると桜子の頭の中は堂々めぐりするばかりだった。

それにまた桜子の中のもうひとりの自分が、あれは夢ではなかったと主張してくるのだ。圭の言葉、圭の唇、圭の生命、あれはほんものだった。お前はあれを信じないのか、と。

信じよう、と思う。
考えても答えが出ないなら、いっそ丸ごと信じて生きていこう。正解が何かはいまだに判らないけれど、少なくともひとつの選択肢は消えたのだ。

圭についていくことはできない。
圭のいない世界で、いったい自分がどれだけやれるのか判らなくて不安だとしても、それをすれば彼はわたしを許さないだろう。そして、圭に許されないと判っていながらしてしまおうとすれば、わたしはわたしを許せなくなる。おそらく、永遠に。桜子は自分でそう結論づけた。

地図にある商店街の入り口についた。昔ながらの古いアーケード街のはずれに店はあるらしい。「ココ」と四角く塗りつぶされた店の位置をアーケードの切れたあたりと目星をつけ、前に進む。肝心な店の名前を店主は書き忘れていたが、いけば判るだろうと桜子は思った。もしかしたら忘れたのではなく、あの時店の住所と地図を描くよう迫られたから云われたとおりのことをしただけという可能性もあるのではないか。そういう偏屈な態度が似合う男だったと桜子は思いだしながら歩いた。

ほんとうにおかしな夜だったな。
滅茶苦茶に走らせた夜の先で偶然遭遇した自転車店の無愛想な店主に、桜子は何だか会うのが楽しみになってきた。足どり軽く進んでいくと、アーケードが切れ、青空が見えてきた。まぶしい。長いトンネルを抜けてきたあとのように桜子は目を細めると、目的の場所の前で立ちどまった。

「……どういうこと?」
一陣の風が足もとをふき抜ける。

そこには長い間シャッターを閉められたままらしい空き店舗があるばかりだった。



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mugiko
広島生まれの広島育ち。ありがたいことに片島麦子の名前で本を何冊か出していただいています。
『銀杏アパート』『想いであずかり処にじや質店』など。
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