皆さんは妖怪と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。恐ろしげな姿でしょうか。あるいは漫画や小説のキャラクターでしょうか。
今回は、石燕が最初に刊行した「画図百鬼夜行」をご紹介し、今に伝わる妖怪たちの姿のルーツをご覧いただきましょう。
〇鳥山石燕とはどのような人物か
姓は佐野(さの)、名は豊房(とよふさ)といい、石燕はペンネームです。正徳二年(1712年)頃に誕生しました。天明八年(1788年)に77歳で没しています。石燕は代々幕府の御坊主である家系に生まれ、経済的には恵まれていたらしいことがわかっています。狩野派に入門して絵画の基礎を学びましたが、彼の画風は最終的には伝統的な肉筆画より、印刷して多くの人に親しまれる、庶民的な浮世絵にたどり着いたようです。実力は高く、石燕の弟子には喜多川歌麿などの後の歌川派に繋がる人や、恋川春町のように草双紙の世界に強い影響を与えた有名人もいます。絵師として作品を残すようになったのは40歳代以降で、「画図百鬼夜行」シリーズのような主たる版本画は60歳代以降と異例的に遅いものでした。収入のために描いたのではなく、表現の手段として描いていたようで、最も好んだ題材が妖怪でした。
「画図百鬼夜行」よりも前に妖怪の姿を描いた書物もたくさん存在します。ではなぜ「画図百鬼夜行」が評価され、記念碑的な作品とされているのでしょうか。それは、石燕の生きた江戸時代中期に起きた文化的な発達と変化が影響しています。
〇江戸時代に花開いた妖怪文化
私たちの身の回りには、本や雑誌、新聞など、印刷されたものが溢れています。印刷物の存在で、時と場所を超えて多くの人に情報を伝えることが出来ます。この印刷技術に大変革があったのが、江戸時代です。多色刷りが発明され、美しい錦絵が作られるようになりました。数多くの版元(出版業者)が生まれたことで、仮名草子、浮世草子、草双紙、黄表紙といった書物が町民たちの間で流行しました。印刷物が庶民の間に浸透し、誰もが同じ情報を共有することが出来るようになったのです。
話だけでは、その姿を各人の想像に任せるしかなかった妖怪たちの姿は、印刷物の登場で共通した姿として認識されるようになりました。さらに、草双紙、黄表紙といった大衆向けの書物の中に妖怪たちが取り入られることで、かつては正体のよくわからないものであったり、畏怖の対象であったはずのイメージは払しょくされ、妙に人懐っこかったり、抜けている描写もされていくようになります。こうして妖怪と人の距離感が近づいたことが、現代でも小説や漫画などの創作物に妖怪が広く取り入れられる土壌を作ったといえます。
さらに、享保年間(1716~35)に幕府が全国的な物産の調査を行ったのがきっかけで、博物学的な思考が広がり、魚介類・鳥類・植物などを、『~図譜』『~譜』と題した書物にまとめることが流行しました。こうした時代の流れの中で、石燕はそれまで姿を記されるだけだった妖怪たちに、名前や説明を添える妖怪図鑑として「画図百鬼夜行」とその後の妖怪本たちを刊行したのです。
〇画図百鬼夜行とは
画図百鬼夜行は前編の陰、陽、風の三冊からなっており、前編だけで、後編は存在しません。本来は前編の後に後編が刊行されるはずでしたが、予定が変更されてしまったようです。刊行されるはずだった後編は「今昔画図百鬼」として後に刊行されています。画図百鬼夜行には51種の妖怪が紹介されており、令和になった今でも有名な妖怪達が、数多く収録されています。
今回はその中からいくつか抜粋してご紹介いたします。
【河童(かっぱ)】
蓮池から飛び出してきた瞬間を切り取った構図で、勢いはありますが、どこかユーモラスな姿です。これは石燕の妖怪画の特徴で、恐ろしい姿を描くのではなく、どこか愛嬌のある姿を描いています。河童の最大の特徴である、頭のお皿もはっきりと描かれています。河童には、『川太郎ともいふ』という説明文がついていますが、これはむしろ例外的で、「画図百鬼夜行」に描かれている妖怪は基本的に名前しか記されていません。そのため、「画図百鬼夜行」に描かれている妖怪の中には詳細が解っていない妖怪もいます。
【網切(あみきり)】
ここで紹介する網切という妖怪は、石燕の創作と言われており、その由来は考察されているものの、はっきりとは解っていません。
しかし、そこから水木しげるは、『蚊帳を朝になって畳もうとすると、すっぱりと切れていることがある。また、漁師の網や、洗濯ものが切られていることもあり、これは網切の仕業である』と解説しています。石燕の描いた姿を基にしたイラストも描いており、水木しげるロードには、網切のブロンズ像も設置されています。この網切のように、石燕によって生み出され、現代でも伝えられている妖怪も存在しています。
このように、最初に刊行された「画図百鬼夜行」は図鑑としては説明が少なく、情報に乏しいものでした。とはいえ、石燕は非常な知識人であり、描いた妖怪に関してもこの時点で十分な情報を持っていたと考えられます。その証拠として、黒塚をご紹介しましょう。
【黒塚(くろづか)】
説明文は、『奥州安達原にありし鬼 古歌にもきこゆ』と記されています。これは、謡曲「黒塚」に出てくる鬼婆を描いたものですが、古歌とは、平安時代の「拾遺和歌集」や「大和物語」に平兼盛の安達原の鬼にちなんだ和歌がありますので、これを石燕は知っていて記したものと思われます。
その他にも、石燕の説明には中国の文学作品や哲学書、日本の古典文学、仏教経典、百科事典、庶民向けの怪談本などから引用されたものがあり、多岐に渡っています。この豊富な知識を添えて妖怪の姿を描いたことで、石燕の妖怪画は信憑性をもち、広く人々に知られるようになったのでした。
【鬼(おに)】
最後に「画図百鬼夜行」とは異なりますが、元々同一の本として出版される予定だった「今昔画図続百鬼」から、日本で最も有名な妖怪である鬼を紹介しましょう。
丑寅の方向を鬼門と言い、鬼を描くときに角をつけて虎の皮を腰に巻くのはこれが理由である、という意味の説明文がついています。この後、「今昔百鬼拾遺」、「百器徒然袋」と石燕は妖怪本を著しますが、いずれも「今昔画図続百鬼」と同様の形式で、妖怪の名前と説明文が添えられています。一見してわかるように、説明が詳細になっています。元々は同じ本の予定であっても、「今昔画図続百鬼」は「画図百鬼夜行」から3年後に刊行されていますので、その間に博物学的思想がより強まり、それが妖怪世界にも及んだことが見て取れます。こうして、名前と姿、その詳細な説明を得た妖怪たちは、より現実世界と近づき、人々の身近な存在になっていったのです。
〇結び
妖怪の姿を現代に伝える上で記念碑的な書、「画図百鬼夜行」を紹介させていただきました。
石燕は妖怪達の姿を描き、世に広めることに自分の晩年をささげています。今でも多くの人に愛される妖怪は、やはり妖怪を愛した男の情熱が伝えた姿でした。そんな石燕は、最期まで妖怪とかかわりを持とうとしたのでしょうか。彼の墓は浅草光明寺にあります。ここは、江戸城本丸から見て鬼門の位置、そう、鬼の方角にあるのです。
〇参考文献
鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 角川ソフィア文庫
水木しげる 日本妖怪大全 講談社+α文庫
湯本豪一 江戸の妖怪絵巻 光文社新書
志村有弘 日本ミステリアス妖怪・怪奇・妖人事典 勉誠出版
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