短いこゆび- 高柳しい -

ホーム お役立ち情報
ライター募集にご応募頂いたライター・高柳しいさんによる短編小説がついに公開。自分の人生にとって本当に大切なものは何か、そんなことをふと考えさせられる素敵な短編です。ぜひご拝読ください!

 白い天井、白いカーテン。ナースシューズがぱたぱたと廊下を行ったり来たりする音。右手の甲に刺さった針は点滴の袋につながっている。透明の液体がぽった、ぽった、と一滴ずつ落ちるたび、わたしの命も一滴ずつ床にこぼれていく。カーテン越しに聞こえる隣の人のかすかないびきと、部屋の中を満たす人工的な無臭。手の指を動かしてみると、皮膚が乾いてひっかかる。
 わたしはもうすぐ、死ぬと思う。死ぬのは全然怖くない。けれど最後に一度、ささぐに会いたい。

 わたしとささぐが暮らしていたマンションは、ずいぶん日当たりがよかった。リビングから窓を通じて広いバルコニーにつながっていて、そこにはたくさんの植物がわさわさと繁り、木の椅子がふたつ置いてあった。ささぐはよく、そこで眠っていた。ささぐと出会った日も、彼女は陽の光をあびてぐっすりと眠っていた。
 30歳で会社に行けなくなった。上司のセクハラから逃げるように会社員を辞めたわたしは、ライターとして小さな記事やコラムを書き始めた。最初の頃の単価は1文字0.1円で、人気女優の恋愛遍歴や映画のネタバレ記事までなんでも書いた。納品を増やすうちに少しずつ単価が上がって、やっと0.4円。営業すればもっと単価が上げられるかもしれないけれど、わたしは人と会うのも話すのも苦手だった。日当たりが悪い代わりに家賃の安いこのアパートから、何度か出版社に向けたメールを送って営業活動したこともある。でも、会って今後の話をしましょう、という連絡が来ると途端に怖気づいてしまう。そうやって返信できないメールが増えていくことに胃をきりきりさせながら、それでも人と会わずに済む単価の安いライター仕事を続けていた。
 今この朦朧とする頭で思い出しても、当時はかなり追い詰められていたと思う。口座の残高の底が見え始め、色々な支払いが遅れていた。日に何度もうずくまるほどお腹が痛み、食欲もなくなった。けれど、食費がかからなくて都合がいいと思うくらいに、お金がなかった。どんなに収入がなくても、水道料金に電気代、年金と健康保険、税金、スマホのお金だけは支払わなくちゃならない。
 口座にお金がなくなったときのことを想像すると、真っ黒なもやもやが頭の中いっぱいに現れて、何も考えられなくなる。だからコンビニのATMでお金をおろすのは、ご飯を食べないことよりよっぽど死に近づく行為だった。
 あの日も健康保険の支払いの督促状を持ってコンビニにいた。ATMの前に立ったけど、どうしてもお金をおろすのが怖くて、そのまま早足でコンビニを出てしまった。ぐったりして近くの公園のベンチに座ったとき、少し離れた斜め向かいのベンチにいたのがささぐだった。
 薄茶色のボブヘアに白いパーカー、ロングスカートの彼女はずいぶんぼんやりしてるようだった。何もない空中をずっと見つめているのが気になって横目で見ていると、彼女はおもむろに靴を脱ぎ、そのままごろんとベンチに横になって目をつむった。
 太陽の光を受けて、髪も皮膚も透き通るようだった。ぴたりとそろえた両足の隣には大きなトートバッグが置いてあって、中から教科書らしい本がのぞいている。今どきの学生って公園でお昼寝しちゃうもんなのか、と頭に浮かんだところで、ああ、お金おろさなきゃ、と思ってまた頭が痛くなった。
「いっそこのまま、死んだりしないかなぁ」
 そしたらもう、こんな心配をしなくて済むのに。
 ベンチに浅く腰掛けて、天を仰いだときの、春のはじまりらしくゆるみきった空とぼやっとした雲。自転車の後ろに幼い子を乗せた若いお母さんや、のんびり散歩するおじいさんおばあさんが目の前を通り過ぎていく。その人たちにある生活の根っこが、自分にはないように思えた。
 こんな晴れた日に死んだら、なんか、迷惑だろうな、きっと。
 口座の残高と、死。その二つしかなかった。あのときは。
 うだうだしてたら、公園の向こう側からジョギング中らしい格好の男の人が走ってきて、眠る彼女をじっとり見つめて走り去った。深くかぶった帽子からちらりと見えたあの目を、わたしは知っている。何度も職場や電車や居酒屋で向けられたことがある。嫌な視線だった。彼女は全然起きなくて、わたしだけが緊張したままじっと座っていると、公園を一周したらしい帽子の男が再び前を通りかかった。目が合わないよう下を向いていると、黒いランニングシューズが隣のベンチの前に止まった。彼女のそろえて置いた靴に、その足が近づいて行く。
 何かが起きてしまうかもしれない。そんな不安がおへその奥によどんでいた。
 ただ座って休憩したいだけかもしれないし、悪い人じゃないかもしれない、いくらそう思い直そうとしても嫌な予感がしてたまらない。タイミング悪く、腹部に差し込むような痛みが起きた。
 男はとうとうベンチに座った。その様子を横目で見ながら、わたしの頭の中には今まで自分の身に起きた理不尽な出来事への恐怖と怒りが渦巻いていた。
 満員電車で身体に感じた違和感と、死にたくなるほどの不快を思い出す。酔った男性から向けられた性的な目線や飛ばされるやじに、目を伏せて時間が経つのを待つ自分が情けなかったことも。じんじんと続く腹痛は強くなって、今では刃で刺されたように痛む。目の奥がどくどくと脈打つほど、わたしは男を見ていた。何も起きないことを願いながら、何か起こることもわかっていた。握り込んだ両手が震える。
 男の手がささぐの白い足首に触れようとしたとき、わたしは思わず立ち上がった。唇をわなわなさせながら、気づいたときには男に向かって叫んでいた。
「こんにちは!」
 自分が思うよりずっと大きな声が出た。怒りをこめて挨拶したのはこれが初めてだ。男がこちらを見て立ち上がったときには膝が震えたけれど、その人は数秒固まって結局、向こうへ走っていった。わたしは何度も深く呼吸して、ずるずるとベンチにへたりこんだ。
 心臓が胸をうちつける大きな音がして、胸に手を当てた。太陽の光が全身にふりそそいで、顔が汗ばんだ。
 あんな大声を出したのに彼女は目を覚まさず、そのまま眠り続けている。それでいい。そのまま気持ちよく眠っていてほしい。そう思った。誰か見知らぬ人の平穏を守れただけなのに、過去の自分まで優しく守られたように思えたから。
 しばらく、お金のことも腹痛も忘れてぼーっとしていたら、いつの間にか彼女は起き上がっていた。しゃっきりと背筋が伸びていて、先程のぼんやりした様子とは全然違って見えた。薄茶色の髪はさらさらとなめらかに風をうけ、肌や瞳はつやつやと光っていた。
 思わず「きれい」と言うと、ほんの小さな声の独り言だったのに、彼女がこちらを見た。数秒、見つめ合った。すぐそばにあるカツラの木の小さな葉たちが、風に揺れてしゃらしゃらいう。
 途端、彼女はハッとして立ち上がり、こちらに向かって来た。わたしの隣に座って、少しだけはにかんだとき、急に空気がゆるんだように感じた。
「ありがとうございます、助けてくれたんですね」
 緑とグレーの混じったような色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。どうしてそれを、と問うと、あのこがそう言ったの、とカツラの木を指差した。わたしがその言葉を理解できずにいると彼女は、大学に行く途中であまりにも眠くなってしまいベンチで休んでいたこと、今日の講義はもう終わってしまったことを足早に話した。
「わたし、ささぐです。あなたは」
 すぐそばに座る彼女の切実な表情に、妙にドキドキした。
「羊子です」
「羊子さん、びっくりするかもしれないけど」
 ささぐの声に重なって、いくつもの木々が風に揺れた。しゃらしゃら、ざわざわ、と空気が振動する。緊張した表情の彼女の真剣な声が、ざわつく風の音に負けずに響いた。
「わたしの家族になってくれませんか」

 それが、わたしたちが共に暮らす始まりだった。ささぐの力強い目のまつ毛の一本一本まで見えるほどズームアップしたところでわたしは、ああこれは現実じゃない、と気づいた。目を開けたらそこには、おぼろげな白い天井があるだけだった。
 最近、少し前の出来事が頭によく浮かぶ。そして、それが目の前のことなのか過去のことなのか、すぐにはわからない。点滴に入ってる薬のせいかもしれない。
「佐野さーん、佐野羊子さーん、おはようございまーす」
 唐突に聞こえた低い声に目を開けると、ベッドの横にいるのは主治医だった。
「やあ、おはようございます。痛みはどうです?」
 わたしは息を吸って、とぎれとぎれに話した。
「もうあまり、痛くはないです。でもすごく眠たくて、ときどき、気持ち悪くなります」
「うんうん、なるほど。副作用ですねぇ」
 ベッドの横にある椅子に座った医師は看護師に渡されたカルテを見て、ふむ、と少し考える顔をして、それからゆったりと、わたしの状況について話して教えてくれた。やはり、薬でどうこうできる段階は過ぎていること。手術より、痛みをとって身体を楽にする緩和ケアをすすめるということ。
「これから佐野さんが、どんなふうに過ごしたいか、考えましょうね」
 わたしはうなずいた。これが現実だった。医師が部屋を出ると、白い天井がぐるぐる回転し始めた。そしてまた、目の前にあの日のささぐが現れた。わたしは公園にいたんだった。
 
「家族、ですか」
 家族になろうという急な提案にわたしがうろたえていると、ささぐは焦ったようにしきりに手をもじもじさせていた。
「急ですよね、すみません、でも体調もずっと悪いみたいだし」
 具合が悪いことまで悟られているとは思わず、わたしが黙っていると、眉根を寄せたささぐが言う。
「一度うちに遊びに来てください、なんなら今からでも。時間はありますか」
「ありますけど……」
「じゃあ、ぜひ」
 たたみかけるような勢いにおされて、わたしはささぐについて歩いた。公園を離れ、駅から遠ざかる。特徴のない閑静な住宅街が続き、その奥にあるレンガ色のマンションをささぐが指差す。
 「あそこです、一番上の部屋。あそこがうちなんです」
 そう言って振り返ったささぐは、宝物を見せるような表情でわたしを見た。彼女の自宅だという最上階には銀色の柵で囲まれた広いバルコニーが設けられ、たくさんの植物が並んでいた。自然の野山のような濃淡のある緑の密集ぶりに息を呑んだわたしのくちから、その日二回目の「きれい」がこぼれた。
 玄関に入ると、天井に届かんばかりに背の高い木に出迎えられた。アジアにいそうな、強そうな幹と鋭い葉っぱ。靴を脱いであがると、明るいリビングの大きな窓は下から見たバルコニーに続いていた。裸足のまま外に出るささぐに続くと、大小さまざまの樹木が並び、それぞれが自信ありげに風に揺れていた。アカシア、ユーカリ、オリーブだけはわたしにもすぐ分かった。ささぐは植物たちの葉に触れ、それぞれを優しく抱きしめるように撫でる。わたしは普段より呼吸が楽なことに気づいた。
「ここだけ空気が澄んでますね」
「この子たちがいるからかな」
 深く息を吸ったときの、胸の抵抗が小さい。透明の栄養がどんどんお腹に入っていくように感じた。するすると、いつまでも。
「この子たちも家族なんだけど、でもやっぱり、ひとりってさびしくて」
そう言ったささぐは、しゃがみこんで小さなガジュマルを撫でていた。吸い込んだ空気が身体に染み渡り、わたしはとても切なくて、さびしくなった。まるでささぐの気持ちまで吸い込んだようだった。
 座り込んだささぐは白い手で葉に触れたまま、こちらを見ずに言う。
「羊子さんさえよかったら、ここに住みませんか」
「……いいんですか」
 今までの自分なら、断っただろう。自分でもどうしてその申し出を受け入れたのかわからないけれど、こんなに息のしやすい場所は初めてで、彼女が緑に触れる指先のさびしさが、そのままわたしの心に乗り移ったとしか思えなかった。
 立ち上がって一瞬泣き出しそうな表情をしたささぐが、わたしの両手を正面からぎゅっと握った。
「もちろんです!わたし、うれしい」
 紅潮したほほのささぐの裸足のそばで、さっき彼女が撫でていたガジュマルの葉がにゅっと大きくなったように見えた。植物たちが元気よく揺れ、あたたかい桃色の風が髪をすすいでいくのが、わたしのお腹までくすぐられるように気持ちよい。体調を崩して以来、あんなに身体が軽かった日はなかった。

 次の次の週、わたしは大きなバッグを抱えてささぐの家にいた。日当たりの悪いアパートを引き払い、持てるだけの荷物をバッグに詰めて。
 ささぐは家賃を求めなかった。「家族だから」という。
 それでも、と家賃を払おうとするわたしに、彼女は言った。
「うち、父も母も海に入って自ら死んじゃったんです。最後はどうしてもそうしたいって、それが人生の望みだって。死ぬ前にお母さんが、もしさびしくなったら家族を作りなさいって言ったんです。あなたに優しくしてくれた人にあなたの大事なものをあげて、家族のように大事にしなさいって」
 そう優しくしたつもりもないけれど、と言いかけて、やめた。ささぐは話し続ける。
「あの日、羊子さんが助けてくれたでしょ。具合悪いのに、わざわざ大きな声で。お母さんが言ってたのは、この人のことだったんだーって思ったの。それで、わたしの大事なものって、家かなって思って」
 彼女が招いてくれたこのマンションは、両親の遺産で得た宝物なのだという。
 最初こそ家賃を払おうとしたけれど、ささぐにそれを柔らかく拒否され、貯金もほとんどなかったわたしは彼女に甘えることにした。それくらい、弱っていた。
 引っ越して数日経った夜、バルコニーに出たささぐがわたしを手招きした。そこにはリビングから引っ張り出したテーブルとヒーター、ふかふかの毛布と、マグカップにたっぷりのホットミルクが準備されていた。外へ出るとひやっとした空気が首をすり抜ける。毛布にくるまって椅子にかけ、向かい合ってホットミルクをすすると、心からほっとした。
「大学、楽しい?」
 心地よい部屋にいるせいか、「家族」という言葉のせいなのか、わたしはずいぶん気楽にささぐと喋るようになっていた。ささぐは海洋生物学を学ぶ学生だった。
「うん、楽しい。海って小さな生き物が本当にたくさんいてね、勉強することもたくさんあるし飽きないよ」
「いいね、面白そう。ささぐはこんなに植物が好きだから、てっきり農学部にでもいるのかと思ってた」
「だよね、わたしもそうしようと思ってたんだけど。両親とも大学で教えてた先生で、小さいときからよく専門的なことばかり聞かされててね、難しい話ばっかだったけど、知らないことを知るのは楽しかったし、二人とも自分の好きなことをずっとやってるから楽しそうだった。だからわたしも、全然知らない分野に行ってみようと思って」
 ささぐは海の砂をとってきて、その中にいる小さな生き物を顕微鏡で見るのが好きなんだという。いつか羊子さんにも見てほしい!と興奮して話す彼女の生き生きとした表情に、自分まで若返る思いがした。
 夜のバルコニーでおしゃべりをするのが日課になった。ささぐのこれまでのこと、わたしのこれまでのこと、お互いの関心事。話題は尽きない。植物たちも静かにそこにいて、話を聞いてはその葉を揺らしてるように見えた。
「羊子さん、深海の定義って知ってる?わたし今日の講義で知ったの。あのね」
 毎夜、ささぐの跳ねるような言葉に耳を傾ける。ささぐもわたしもホーローの小鍋であたためたホットミルクが好きだ。わたしはご飯があまり食べられない日が続いていたけれど、ホットミルクならごくごくと飲めた。春の夜は冷える。飲み込んだミルクの熱で、胃の形がわかるほど。
「明日は干潟に採集に行くの。楽しみだな。長袖と長靴でしっかり装備していかなくちゃ」
 日焼けしちゃうものね、と言いたかったけれど、うとうととして言えなかった。いつもわたしが眠りこけて、ささぐが手を引いてくれて、わたしを布団に入れてくれる。ホットミルクがたぷたぷとお腹にあるのを感じたまま目を閉じると、昼間やってくる鋭い痛みのことを忘れて眠ることができた。

 桜の花が散り、青い葉が目立つようになった頃、わたしは一切の仕事ができなくなった。リビングで横になって過ごしてばかりいる。鏡にうつる自分の頬が、そげて痩せていく。
 宙を見つめてぼんやりするわたしに、ささぐが尋ねたことがあった。
「羊子さん、今なに考えてるの?」
「母のこと」
「お母さんのこと?」
「うん、今のわたしとあまり変わらない年で死んじゃった母のこと」
 ささぐがきゅっと身を固くしたのを感じて、余計なことを言ったとわかった。
「大丈夫、わたし、死ぬのは怖くないの」
 できるだけの笑顔でささぐを見つめると、彼女は笑ってはくれなかった。
「わたしは羊子さんが死ぬのが怖いよ」
 その表情だけでわたしの胸は十分にしめつけられた。けれど、バルコニーの植物たちみたいに日光を浴びて元気に育って、生きよう生きようってするあのパワーが、自分にはかけらも残ってない気がするのだ。

「羊子さん、日に当たったほうがいいよ」
 ささぐはよくわたしを日光浴に誘った。
 このマンションは彼女いわく「日当たりの良さだけで選んだ」のだそうで、たしかに一日中ぽかぽかとしていた。広いバルコニーに出した椅子に、ささぐは「さあさあどうぞ」とわたしを座らせ、隣の椅子に自分も座る。ささぐが手のひらを真上にかかげて、太陽に向けた。真似してみると、手のひらに陽光がぎゅっと集まってきた。光に透かされた自分の両手をまじまじ見ると、皮膚はかさかさと乾き、爪が波打っている。この手を見たことがある。死んだ母の手だ。
 母はいつもご機嫌で、優しかった。どんな日も元気に「おはよう!」とわたしを起こしてくれたし、寝る前には「おやすみ、よい夢を」と抱きしめてくれた。わたしのほっぺたに母のほっぺたがくっつくと、ひやっとしてこそばゆい。母子家庭だけど母はその苦労を見せなくて、幼いわたしが、大人になってもお母さんと一緒に住むの、と言ったら母はにっこり笑ってくれた。けれどあるときから、家の中が陰っていった。母が体調を崩したのだ。日に日に痩せていって、最後は病院でぽつんと死んだ。母ひとり、子ひとりの小さな家族で、わたしはただ母と同じ布団で、ぎゅうっと抱きしめてもらうだけで幸せだった。砂浜に描いた絵が波にさらわれて一瞬でなくなってしまうように、母は死んだ。わたしの手は、確実にあの日の母の手に近づいていってる。
 いつの間にか寝息をたてているささぐの隣で、わたしももう死ぬかもしれないな、と思った。そしたら、ささぐに悪いな、とも。日の当たるバルコニーに、たくさんの植物、そして、ささぐ。目の前に見える景色は一人で陰気な部屋に暮らしていたあの頃とは全然違った。これからの毎日がこの日当たりのいい部屋でほのぼのと過ぎたらどんなに幸せだろう。けれど確実に、暗闇は近づいてきている。
 頭上ではあたり一面うっすらとした雲が増え、青空は見えず、空気は湿っていった。
 人は死を前にすると、その現実を否定したり、怒りを発したり、どうにかして救われようとするって、どこかで読んだ。けれど、それはわたしには当てはまらないなと思う。少なくともわたしには、どうにかして生きようともがく人が共通して持っている生命力がないみたいだ。母が死んでぽつんと一人残されたときに、大きな怒りも悲しみも執着も、全てどこかに置いてきたのかもしれない。
「羊子さん、わたし今、お母さんの夢を見てた」
目を覚ましたらしい彼女が、椅子の上で膝を抱えていた。
「どんな夢?」
「うーん、お母さんと一緒の布団で寝る夢、かなぁ」
「夢の中でも寝てたのね」
「うん。お母さん、大好きだったな、いい匂いがして」
 そうだよね、お母さんの匂い、好きだったけどもう思い出せないな。そう思ったけれど、それを口から出したのか、もう定かじゃなかった。
 梅雨にさしかかる頃、痛みで立てなくなったわたしはささぐに連れられて病院に行き、そのまま入院した。点滴が始まるとするどい痛みが遠くに行ったのと同じように、五感そのものもゆるやかに遠ざかった。医師の言葉はぼやぼやと耳に入るものの、それを文章として認識するのは難しかった。深夜に響くナースコールの音と看護師の足音が遠くなったり近くなったりする。起き上がれないわたしを覗き込んでゆっくり話す医師の、手術はかなり厳しいだろう、という、その言葉だけは聞き取れて、わかりました、と言うほかなかった。緩和ケア、ホスピス、という単語に、ああもういよいよだな、と思う。昨日は枕元でメガネをかけたソーシャルワーカーの女性が今後の転院について一生懸命説明してくれたけれど、もうわたしにはきちんと返事をする余力がなかった。
 無意識に、本当に無意識に、わたしは感謝をのべた。日に何度も話しかけてくれる医師や看護師、ゴミ収集のおばさん、食事を配膳してくれる人、すべてにわたしは小さな声で、ありがとう、と言っていた。心から感謝だけが一滴ずつこぼれていく。もうそれしか自分に残ってないからだ。ああそういえば、母もわたしが見舞いに行くたびに「ありがとうね」と言ったんだった。子どもだったわたしはその「ありがとう」を全然理解できなくて、ありがとうって言わなくていいから生きてよ、とぐるぐるした怒りに追い立てられて、ベッドサイドで毎日泣いて過ごした。そしてひとりになった。今なら少しわかる。使い果たした命の最後に、残るのは感謝かもしれない。
 ささぐのことを思う。もう死ぬけれど、ささぐに最後にちゃんとお礼を言いたい。わたしと一緒に暮らしてくれたこと、わたしを日の当たるバルコニーに連れ出してくれたこと。ありがとうって、言いたい。
「今日で梅雨があけたそうですよ」
 看護師がそう言って、ベッドをぐるりと囲うカーテンを閉めて部屋を出ていった。うっすら目を開けると、夜だった。朦朧とし、夢と現実とが少しずつ混ざり合うように世界がぐねぐねと揺らいだ。眠ったり、起きたりを繰り返す。
 ふ、と目が覚めた。暗い中、あの家の匂いがした。日に当たった植物たちが夜、静かに眠るときの匂い。同時に、冷たい手のひらをひたいに感じた。
 わたしに家族がいないから、医者がささぐを呼んでくれたのだろう。いよいよ死ぬのかもしれない。
「ささぐ」
 呼びかけたけれど、声はしない。それどころか、もう何も聞こえてこなかった。自分の声は耳からでなく、身体の内側から響いている。
「ささぐ、いるかな」
 咳払いもできなくて、かさついたのどのまま、わたしはささぐに話しかけた。
「ささぐ、ありがとう、ありがとうね」
 ぼんやりした視界の中で、ささぐの顔はよく見えなかったけれど、何か話しかけてくれている気がする。もはや何も耳に届いてないけれど、ささぐがわたしに何か問いかけてる。空気に乗ってそれが伝わる。
「でも、もう一回だけあのバルコニーで、一緒に、ホットミルク飲みたかったな」
 わたしのひたいに触れていたささぐの右手の小指から、しゅるしゅると何本もの白い糸が出てくるのが見えた。それが頬や耳、首に触れるのがわかる。
 これは、なんだろう。
 そう思ううちに、身体が溶けて軽くなっていくようだった。しゅわしゅわしてなめらかで、ホットミルクの中に浮いてみたらこんな感じかもしれない。
 思考と感覚が混じり合い、散り散りになって自分がひとつの何か、ただの湿った命になったような思いがした。
 あるとき体の中で急にさざなみがたって、一度だけぴかっと視界全てが真っ白に輝いた。ふわ、とすべてが軽くなって、重くなって、そのまま暗闇を落ちていった。

 あ、死んだな。

 そう思った直後、勝手に目が開いて、驚いた。
 そこはわたしの病室だった。けれどこれまでと何もかも違う場所のようだった。
 病室の天井の模様が、クリアに見える。カーテンのシワも、シーツのぱりっとした感じも、全ての感覚が初めてのことのように新鮮だった。起き上がると背中も手足も軽く、視界が広かった。検温ですよ、とやってきた看護師が起き上がったわたしを見て仰天し、急いで呼ばれてきた医師までもが、あの世のものでも見るような目でわたしを見た。
 いろいろな検査を経て、わたしの体から病巣がさっぱりと消えたことがわかった。医師が言った。
「なんとも不思議なことですが、もう入院は必要ないでしょう」
「ありがとうございます」
 立ち上がった医師が、何か思いついた表情をした。
「もしかして昨夜、誰かここに来ましたか」
「……はい、おそらく」
「そうですか、なるほど。うん。素晴らしいことですね、生きているということは」
「はい、ほんとうに」
 本当にそう思う。母と同じ道を辿ろうとしていた自分を、今のわたしはずいぶん遠くから眺めている。あの頃のわたしを理解することはできても、もはや共感はできない気がした。バルコニーの植物たちの、ただ生きて日光を受け、風に葉を揺らす姿を思い出す。
 わたしは数日後に退院することになった。
 昼食のおかゆを食べ終えて座っていると、急に空気の感触が変わった。やわらかくて青い風が廊下から病室の窓に抜けていく。ささぐが来る、そう感じた。
 直感のとおり、ささぐが病室のドアから顔をのぞかせた。
「羊子さん、顔色がよくなったね。退院だって?」
 病室の椅子に腰掛けたささぐの声が、今までとは違う響き方でわたしの体を揺らした。耳じゃなくて、胸に響くのだ。
「ぜんぶ、ささぐのおかげでしょう?」
 わたしが言うと、ささぐはその場に固まって黙り込んだ。見つめていると、ささぐの両の目がだんだんと丸く潤んで、涙があふれた。わたしがこれまで見たことのある涙とは違う。ささぐの涙はあふれた途端に空中に浮いて散らばった。
「羊子さん、わたし、勘違いしてた。お母さんが言ってた大事なもの、って、家じゃなかった。羊子さんがどこかに行っちゃうと思ったらわたし、どんなことでもしようと思えたの」
 ふくらむ涙に光が反射する。
「出会ったときの羊子さん、死にたがってるみたいだった。それがお父さんとお母さんみたいで、悲しくて、だから一緒にいてほしかったの」
「うん」
「でも、羊子さんが生きたいって、思ってくれたらわたし、それを叶えたくて、でもあげられるものは、これしかなくて」
 ベッドに上体を起こして座るわたしの膝に、ささぐが突っ伏した。シーツをぐしゃりと握る彼女の右手の小指は、異様に短くなって白い包帯が巻かれていた。今もささぐからあふれる涙が、じゅわじゅわと浮いて病室の空気を潤していく。
 ささぐの背中を撫でると、きゃしゃな首筋に、何かがあった。そこには皮膚から細く飛び出た枝と、若い緑色の芽が、たしかにあった。
 わたしは左手で自分の首の後ろに触れた。今までなかった小さく細い何かが生えている。わたしはそれが何か、すぐにわかった。
「ささぐの小指を、命をわたしに分けてくれたんだね」
 顔を上げたささぐの顔が、窓から差し込む陽光を反射した。朝露みたいな涙が目からあふれ、水の粒がまた部屋中にきらきら浮かんだ。ささぐがいつも日光浴の後につやつやと光ってしゃっきりとしていた理由が、今になってやっとわかった。
「ささぐは植物だったんだね」
 宙に浮いた彼女の涙が一斉に震えて、弾けた。胸の中に共鳴する、この感情がささぐのものなのか、わたしのものなのかわからなくなる。
 う、う、と泣くささぐが、言った。
「わたし、これしか、羊子さんを生かす、方法、が、わかんなかった。勝手なこと、して、ほんとにごめんね」
「ささぐ、ありがとうね」
 浮いた涙をひとつ左手でつかまえて、くちに入れてみた。舌に乗せると、小さな粒がぱちんと弾けて、手足の指先まで続く細い管にあたたかい水が通ったようだった。この手の指の先まで、ささぐの命でいっぱいに満たされてるんだ。
 わたしは両腕でささぐを包んだ。わあわあ泣く彼女を胸に抱きしめる。ああ、これ、知ってる。生まれたときだ。わたしが生まれたときのお母さんの気持ちだ。
 新しい命みたいに瑞々しく泣きじゃくるささぐを抱きしめて、わたしの涙も、宙で弾けた。

「……羊子さん、起きてる?」
 寝ていたわたしのベッドのそばに、毛布を抱きかかえてフラフラしたささぐが座った。明かりの無い部屋で、月明かりに照らされたささぐの肌はいっそう白く見えた。部分的にでも身体を失うと、再生に栄養をまわそうとして貧血みたいな症状が出るのだそうだ。今のささぐは朝も夕もよろよろと軸が定まらないことが多い。
「眠れない?ホットミルクでもしようか」
「いらない。なんか、そういうんじゃない」
 不満げにくちびるをとがらせる姿が幼児みたいでわたしが思わず笑うと、ささぐが真っ赤になったのがわかった。彼女によれば、この種類の生き物の特徴なのか、身体の一部を失うと精神年齢が退行するらしい。昨夜はお気に入りの枕カバーが洗濯中だったというだけで拗ねていた。
「うちのお父さん、幼稚園の頃にこけて腕を折っちゃって、生えてくるまで幼稚園には行けないし家でずっと赤ちゃんみたいに泣いたりミルクを欲しがったりしたらしいよ。それよりマシでしょ」
「そうね、わたしも怪我しないようにしなきゃ」
 少しだけ機嫌が治った様子のささぐは、下を向いて手で足の爪をいじって座っている。右手の小指は少しずつ伸びている。まだまだ短いけれど、人間のそれとは違って再生しているのは間違いない。わたしの指もいつか自らの意思で切ったり、あるいは切れたりして、そこからまた植物らしく伸びていくのだろうか。あれから何度も自分の両手を眺めてみるけれど、何も変わった気がしなかった。
「ささぐ、今日は一緒に寝ようか」
「……うん」
 ささぐはこちらを見ずに、のそのそと布団に入ってきた。肩まで羽根布団をかけてやると、表情がやわらいだ。
「あったかい」
 子どものように屈託なく笑うささぐに、わたしのほほもゆるんだ。自分が母にしてもらったときのことを思い出して、トントンと胸元を叩いてやる。少しずつまぶたの落ちていくささぐを見ていると、わたしまで眠たくなってきた。
「羊子さん、いい匂い」
 寝ぼけて口元をむぐむぐさせながら、ささぐがつぶやいた。そういうささぐからは、花が開いてすぐのサフランのような秘められた華やかな匂いがして、彼女の言う「家族」にはそぐわない甘い感情が、自分ののどの奥にちょっぴりある気がした。
 寝息をたてるささぐの顔にさらさらと髪がかかっていた。それを指先ですくって耳にかけ、ほほを軽く撫でるとあたたかかった。もう一度、羽根布団を肩までかけ直す。
「おやすみ、ささぐ」
 あの日彼女がわたしのために差し出した小指を、途方もない愛情を、次はわたしが返す番だ。
 心の奥でひとり静かに決意したはずなのに、それまで静かだった深夜のバルコニーの方からは、ざわざわ、びゅうびゅう、と嬉しそうな葉の踊る音がした。








クラウドファンティングを立ち上げたい方はコチラから



その他、掲載中の記事は ↓コチラ↓ から

#Musician  #Fashion  #Photographer  #Novel  #Pictorial

#コンペ特集  #お役立ち情報  #スタッフブログ





Author Profile
高柳しい
・職業/活動
ライター等
・略歴
理学部卒業後、関東のIT関連会社でエンジニアとして就職。双子を出産後、一念発起して辞職し福岡の海辺に移住。現在は大学職員とフリーランスの二足のわらじを履く生活。
短いこゆび - 高柳しい -
column
Musician

無意識の具現化- TORIENA -

キャッチーでハードコアなサウンドを得意とするトラックメイカー・TORIENAさんにコラムを執筆していただきました。クリエイターの生まれる瞬...
Novel

「NOVELS WARS」 #21- 嶽本野ばら -

作家:嶽本野ばら先生による小説家講座「NOVELS WARS」番外編!読者への小説執筆のお手本、そして挑戦状と銘打って始まった「がんばれ太宰く...
Fashion

@表参道美容師が思う“独立”とは- 長谷川裕二 -

美容師歴12年、来年の3店舗開店に向けて準備中の長谷川裕二さん。美容師という生き方、そしてこれからの美容師像を執筆いただいております。...
column
column
Staffblog

地球を見守る宇宙生命体、ビビ‼︎っとびびび君#3- 夏海 -

福島・いわきを応援プロジェクト!クリエイティブコンペティション2021【4コマ部門】最優秀賞の夏海さんによる連載第3回目!人類誕生の秘密が...
tag:
Staffblog

私、阪口と申します!#11- BUNCA阪口 -

BUNCA立ち上げメンバーの一人である阪口のこれまでを描いたスペクタクル大長編エッセイ、ここに開幕です。番外編「僕が旅に出る理由⑥」。今回...
Staffblog

私、阪口と申します!#10- BUNCA阪口 -

BUNCA立ち上げメンバーの一人である阪口のこれまでを描いたスペクタクル大長編エッセイ、ここに開幕です。番外編「僕が旅に出る理由⑤」。今回...

『BUNCA』はクリエイター/芸術家を応援する
WEBメディアサイトです。

×
keyboard_return