名画誕生ヒストリー・フェルメール『真珠の耳飾りの少女』- 早坂多幸也 -

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名画誕生の秘密や、名画に隠された秘密に迫る「名画誕生ヒストリー」。今回はフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』の解説!

黄色いジャケットにエキゾチックな青のターバンを着け、後頭部から黄色の布を垂らす少女の耳には、大きな真珠の耳飾りが光っています。通った鼻筋と輝く瞳の少女は、何かを語り掛けるようにつややかな唇をわずかに開き、思わせぶりな視線をこちらに投げかけています。暗い背景に浮かぶ青と黄色の対比が印象的な「真珠の耳飾りの少女」は、ヨハネス・フェルメールによって1660年代に描かれました。恐らくフェルメールの作品で最も有名であり、様々な芸術関連の書籍の表紙を飾ったり、象徴として利用されたりしています。あのバンクシーは、耳飾りの部分に警報機を使ったアートをブリストルの壁に残しました。北方のモナリザとも称され、多くの人に愛されるこの名画は、どんな時代にどのようにして描かれたのでしょうか。今回は、その歴史を紐解いてゆきたいと思います。

〇フェルメールが生きた時代

フェルメールは、1632年10月31日にオランダのデルフトに生まれました。父親は2軒の旅館と美術商を営んでおり、幼いころからフェルメールは絵画に接する機会に恵まれていたと考えられます。フェルメールの師は諸説ありはっきりとはわかっていませんが、1653年末には画家として独り立ちしています。フェルメールは初め宗教画や神話画を描く物語画家としてスタートしますが、すぐに市民の日常生活や風景画を描く風俗画家に転向します。これは、当時のオランダの情勢が大きく関係しています。17世紀のオランダは、16世紀末にスペインから実質的独立を果たしたばかりの若い国でした。この国が他のヨーロッパ諸国と異なる点として、君主制ではなく、王や貴族がいないことがあげられます。社会の主役は市民でした。また、カトリックを強要するスペインの圧政に苦しんだオランダの国教はプロテスタントで、教会内部を宗教画で飾ることを原則禁止としていました。王侯貴族や教会といった画家の大口の顧客がいないオランダでは、市民のための絵画が発達していきます。

〇フェルメールの描いた風俗画

ヨーロッパの他の国々では、王族や聖職者の姿を描き、宮廷や教会に飾られる「公式な」絵画を描き続けていたのに対して、オランダでは市民の家庭に飾られる「私的な」絵が求められました。それは、小ぶりな風景画や風俗画、静物画です。フェルメールも、1656年には風俗画である「取り持ち女」を制作しています。この絵は娼家を舞台とした風俗画ですが、同時にキリストが信者たちに説いた「放蕩息子」のエピソードを思い起こさせます。つまり、「取り持ち女」は物語画家として出発したフェルメールが風俗画家へと転向してゆく過渡期の作品と考えられます。以降フェルメールは、数少ない例外を除き、もっぱら風俗画に取り組むようになりました。1660年代に入るとフェルメールは独自の気品と魅力を放つ作品を制作していきます。このころの代表作に多く見られる共通点は、清潔な部屋の一隅で営まれる何気ない日常を切り取っていること。この時期の代表作の一つ「青衣の女」を見てみましょう。
壁の前に立ち手紙を読む女性を描いたシンプルな構図。天井も床も窓も見えません。使われている色彩は青と黄と茶色と驚くほど少ないですが、モティーフの重なり合いと色彩の対比が奥行きと柔らかな光を作り出しています。女性の表情や動きは静かで、まるで静物のようにそこにあります。
このように、フェルメールはモティーフ、構図構成、色彩といった要素をすっきりと整理し、空間を独特の光で満たしてゆくことで独自の世界を現出させました。絵の中の物語性は極力排除され、あくまで日常を切り取った風俗画として描かれています。




〇真珠の耳飾りの少女

登場人物の動きや物語性を極力抑えた静かな風俗画を目指したフェルメールにとって、「真珠の耳飾りの少女」は一つの成果であったのかもしれません。
他のフェルメール作品に描かれた登場人物が、手紙を読む、牛乳を注ぐといった何らかの行為に関与しているのに対し、「真珠の耳飾りの少女」はただ振り返っているだけの姿が描かれている点で異色です。このような若い女性の顔のクローズアップは珍しく、数年後の作品「少女」とあわせて2例が現存するだけです。背景も省略され、一見すると肖像画のようですが、少女のターバンは架空のもので、こうした巻き方はアフリカにも中近東にも見られません。ドレスのデザインも当時のオランダには見られないものです。そのため、この少女は現実の存在ではなく、もう少し夢想的な存在として描かれていると考えられています。この絵は、当時のオランダ絵画市場で肖像画に替わるかたちで誕生した「トローニー」と呼ばれる新種の絵画として描かれています。トローニーとは、不特定の人物を描いた頭部像を指す用語で、当初は画家が人物の特徴を描くための習作でした。トロ―ニーは、絵画の市民市場の確立と前後して、独立した作品とみなされるようになっていきます。肖像画は、当人に縁のない人にとってはほとんど無価値となってしまいます。一方で、架空の理想像や個性的な顔を描いても良いトローニーならば、多くの人々が感情移入することが出来、商品価値を発揮できます。そうしたトローニー的理想像を今に継承しているのがピンナップ写真や広告に登場する美女たちであり、真珠の耳飾りの少女が今日的魅力に満ち満ちているのはそのためかもしれません。

トローニーというジャンルだけでなく、「真珠の耳飾りの少女」に使われている顔料や題材となっている真珠にも、当時の歴史が感じられます。フェルメールが生涯のほとんどを過ごしたデルフトは、スヒー運河を利用すれば短時間で海上に出られるため水運業が発達し、17世紀前半まで経済的な発展を遂げました。海外雄飛の象徴である西インド会社、東インド会社がスヒー港の近くに置かれ、17世紀半ばの納税記録からは、当時の富裕層が住まう地域であったことが推測されます。印象的なターバンの青い顔料は高価な宝石ラピスラズリから作られており、ヨーロッパでは産出しないため、アフガニスタンから地中海を超えて運ばれてきていました。そのため海(マリン)を超えた(ウルトラ)という「ウルトラマリン・ブルー」という名前で呼ばれており、金と同じほどに貴重な顔料でした。青はフェルメール作品で最も多用されている色ですが、そのほとんどにウルトラマリン・ブルーが使われており、フェルメールの格別の思い入れが感じられます。ターバンのもう一つの色である黄色もインド産の絵の具を使用したと考えられており、交易の要地デルフトは、こうした舶来の絵の具を入手するには恵まれた地でした。また、当時のオランダは真珠ブームの真っ最中。東洋から渡ってきたこの宝石は、身に着ける人の財力の証であり、世界に冠たる貿易大国となったオランダの繁栄の証でもありました。「真珠の耳飾りの少女」は世界貿易の恩恵を受け、描かれていたのです。




〇結び

いかがだったでしょうか。画家というのは常に時代の影響を受け、その絵もまた歴史の証人であります。「真珠の耳飾りの少女」もまた、フェルメールが生きた時代と国の姿を静かに今に伝えてくれています。
1675年に、フェルメールは43歳で亡くなりました。画家としての活動はわずか20年ほどで、現在残されている、真作とされている作品はわずか35点です。これらの作品はフェルメールの死後散逸してしまいました。しかし、「真珠の耳飾りの少女」は現在も、フェルメールが眠るデルフトからほど近いハーグのマウリッツハイス美術館に収蔵され、その魅力的な眼差しを訪れる人々に投げかけています。

〇参考文献

小林頼子 フェルメール論 神話解体の試み  八坂書房
古林頼子 フェルメールの世界 17世紀オランダ風俗画家の軌跡 日本放送出版協会
古林頼子 朽木ゆり子 謎解きフェルメール 新潮社
岡部昌幸 レンブラントとフェルメール 新人物往来社
西岡文彦 語りたくなるフェルメール 角川書店







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