元美人アナウンサーが
「20代で『モテたい』って思ってる子はまだいいと思うんだけど、
30代でモテたいって思ってる人ってすごいなんか『薄っぺらいな』って思うんです」
と語った言葉がSNSで話題になり、私の目にも止まった。
彼女は
「30代にもなって不特定多数にチヤホヤされたいって…『この30代で?』>と思って」
と少し棘がある言い方をする。
一緒に出演していた女性お笑い芸人が
「私が言う『モテたい』は育む愛の1個がほしいわけよ」と反論すると、
彼女は
「それは『愛されたい』>です。自分が好きな人に愛されたい。
これはモテたいとは違います」と語った。
この言葉は共感する声が多く集まり話題になったのだが、私は素直に聞き入れることが出来なかった。
画面に映る彼女は美人で知的で今までの人生でさぞかしチヤホヤされてきただろう。
この言葉は一度でもモテたことがある人だから出た言葉だ。
私は33歳になった今も一度で良いから、人生が終えるまでに不特定多数の人にチヤホヤされたい。
「何故ヌードを撮影しているのですか?」>や
「何故女性であることをテーマにして作品制作をおこなっているのですか?」>
と聞かれることは多いが、最近になって自分が女性であることを確認したくて、
そして示したくて作品を作っている気がする。
作品を作ることによって自分が女性であることを確認し、発表し「私は女性である」>と認識している。
前々から「女性であることに良い意味でも悪い意味でもコンプレックスを持っている」
と語ることは多かったが、私は女性が大好きだ。
男に媚を売って可愛く賢く生きている女性にも、強く気高く生きている女性にも心から憧れている。
そういった生き物と自分が同じ生き物だと思うと、
嬉しい気持ちが9割を締めるが、残りの1割は信じられない気持ちがあるのだ。
何故自分がここまで女性にコンプレックスを抱くことになったかと考えてみると
単純にモテなかったからだと思う。
そして私の周りにはモテる女の子たちが多かった。
彼女たちは自分が持っている美貌や知性や、愛嬌など色んなアイテムを使って
不特定多数の人たちからチヤホヤされていた。
私は隣でただそれを見ていた。
たまに彼女たちを紹介してほしいと頼まれたり、
彼女たちと話したい人たちから話かけられたりした。
彼女たちと不特定多数の男性を繋ぐためにせっせと世話を焼き、
こんなことをしている私もいつか彼女たちのように
「可愛い」や「愛しているよ」という言葉を貰えるのだろうか。
同じ女性なのに、何故こんなにも扱いが違ってくるのか。
彼女たちは何故私が欲しかったものや大切にしたいものを、
あんなに簡単に手に入れることが出来るのだろうか。
きっと彼女たちは彼女たちでたくさん努力をしているだろうし、
それを知らない私が「簡単」だということは失礼なことなんだろう。
でも私には簡単に見えるのだ。
そんなチヤホヤされている女の子たちが羨ましくて、
好きでもないのに男の人に求められては体を繋げてみたり、
キャバクラで働いてみたり、モテるふりをしてみたり、
私は昔から「女性であること」>を証明することに必死だったのだ。
「女性」とはなんたるか、
何をもって「女性」なのかという価値観は本当に人それぞれだと思ってはいるものの、
やはり「モテるかどうか」は誰の目から見てもハッキリとわかる指標であることは事実で、
私はこの事実に長い間縛られすぎたのだと思う。
小学校3、4年生になった頃くらいから、周りの親が
「◯◯ちゃんはお人形さんみたいに可愛いわねぇ…」
と容姿について話す言葉が気になるようになってきた。
もっと小さい頃はみんなで並んでいてもみんなが
「可愛い、可愛い」と言われ同じように扱われてきたのに差が出来始めたのだ。
でも親が可愛いと褒める女の子たちは、確かに顔が小さくて、
髪も長くて目が二重で大きくて、本当にお人形のようだった。
そんな彼女たちと自分の違いを理解し始めた私は、
常に髪の毛はショートカットでズボンしか履かない女の子になった。
小学校高学年になるころには、
周りの子たちは好きな男の子が出来始め、少し色めき立っていた。
常にズボンを履いてボーイッシュな自分には好きな人も出来なかった。
そのときは周りの女の子が男の子にチヤホヤされていても
「羨ましいなぁ」より「凄いな」「◯◯ちゃんは本当に可愛いもんな」
といった尊敬する気持ちのほうが大きかった。
ただ男の子たちよりも学校の先生たちも男性、女性かかわらず
可愛い子に対してのほうが、対応が優しかったように思う。
可愛い女の子たちは笑っただけでも花が咲いたように、その場が明るくなる。
私が先生でも可愛い子に話しかけられたときは自然に笑みが溢れるだろう。
先生からの特別扱いは正直少し羨ましかった。
幼少期からそうして大きくなり、
初めて自分が「女性」だと感じられたのは、高校三年生のとき。>
初めての彼氏が出来た。
そのときまでは、
当時流行していたアシンメトリーのウルフカットで相変わらず髪は短く化粧っ気もなかったのに、
彼氏と並んでいても恥ずかしくないように、ちゃんと女の子に見えるように化粧も始めた。
短い髪の毛に無理やりエクステをつけた。
学生でお金もなかったので、
ウルフカットの襟足にだけつけて今思えば本当に変な髪型にガタガタなアイラインを引いて、
とんでもない姿をしていた気がする。
しかし男の子に好きだと言われて、
キスされて、体の関係を繋げた威力は凄まじかった。
やっと私を女性のスタートラインに並ばせてくれた。>
しかしスタートラインに並ぶのが遅い上に準備体操はおろか体作りすらしてなかった私は
そこから走り出しても常に見えるのは他の女性の背中ばかりだった。
こういった過去を話すと
「でも結婚されてお子さんも産まれて幸せになっているじゃないですか」と言われる。
言われるたびに自分がお腹を痛めながら(実際にはお腹だけではなく体中痛かったが)
娘にカメラを向けた日を思い出す。
今現在では出産は女性にしか出来ない行為である。
その瞬間を撮影してまで自分が「女性」であることを示したかったのかと、
自分の卑屈さに呆れてしまうし、何がそこまで私を苦しめているのかと自分の心に問いかける。
美醜が原因でいじめなどもあったことはないし、
恋人も何人かいたし、そこそこ良い人生だったではないかと優しく自分の肩を叩きたい。
歳下の優しい夫もいるではないか。
なかなか面白い娘もいて幸せではないかと。
私は何も自分が不幸だと言いたい訳ではない。
ただ私がこれからもずっと写真を撮っていくうえで、制作を続ける理由なだけだ。
何故自分が「自分が女性であること」>にそこまで拘るのか。
その原因を探すかのように今日もシャッターを押す。
そんな私の娘が大人になるころには、こんな証明が馬鹿らしくなっているように、
人の外見についてどうこう言うことがタブーな世の中に、男性も出産出来るように
多様性が今よりもっと認められるように、そうなっているように私は願う。
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