ほとんどの人がはじめましてだと思われますので、自己紹介的にこの道に進んだ経緯などを。
色々と思うところあって、最初からカメラマンを志したというのはない。
幼少時から無意識下で写真には興味があった模様。プラモデル完成後にジオラマ撮影や、お気に入りのギターを撮影したりしていた。
機械を通して形に残せる所が子供の頃の自分には何かかっこよく思えたのだろう。
フィルムを現像に出してプリントを待つのも楽しみの一つ。
蓋を開けてみるまで分からなかったり、写真機のプロダクトとしての魅力もあったのでしょう。
押せば完結するし、楽ちんでインスタントだったのも良かった。
(書いてて思ったのだけど、写真行為のプロセスは魔物ですね笑)
大学に入ってからは、なんとなく絵を描いたり、グラフィックデザインやプロダクトデザイン、映像関係(ムービー)の仕事に就ければいいかも?くらいにしか思ってなかった。
・大学在学時、友人にそそのかされる。
そろそろ就職の話もちらほら話題に上がるような時期に友人から
「アートディレクターになればなんでも好きなもの作れるぞ!広告代理店のアートディレクターになろうぜ!」
そんな恵まれた職業があるのかと真に受けた私は某大手広告代理店アートディレクターを目指しつつ、写真系の仕事も並行して探していた。アートディレクターがイマイチ何者かは知らぬままに・・・。
当時はインターネットも無く、フォトグラファーになるための情報は、ほぼ口コミでしか得られなかった。
写真専門の学校や大学であれば、そのような情報はあったのだろうが、私が通っていた美大は写真に関して専門外だったので情報は少なかった。
非常勤の先生やバイト先(一応、写真の)、雑誌などから得られる数少ない情報は、スタジオに入りスタジオマンになる、カメラマンのアシスタントになる、東京へ行く、、、くらいであった。お金がないとなれないよ、みたいな脅しともとれるありがたいアドバイスもありました笑。
そんな中、写真新世紀や、ひとつぼ展等のコンテストからデビューした写真家達が活躍しつつあるのを目にして、自分はこれかもな、いや、これじゃないと無理かも、と思ったのである。
なぜならその当時、スタジオマンになることや、どこかのせんせーのアシスタントになることは=暴力に耐えねばらならないという認識であったから。
聞いた話だと、スタジオマンは寝る時間もなく、スタジオの隅で寝落ちたところを蹴り起こされて、みたいなことや、せんせーの鉄拳制裁を受けなければならない、、、みたいな話ばかり聞いていたからである。極端な例だとは思うけど。
さすがに体罰に耐えてまでやりたいとは思っていなかったし、痛い思いしている時間を自分の写真の制作に割いた方が利があると思ったのだ。
まぁなんとかなるかな、くらいの感じでコンテストに応募しながら自分の写真を模索していたような気がする。
その後、アートディレクターを目指して、大学院に進むも、企画を立て、目的に向かい、ディレクションをしていくという意味がわからず、自分の能力の無さと、とにかく企画書ありきの制作にうんざりしていた。
当時の先生は
「目的がないとシャッター切れないだろ?」
と私に問うたが、目的は無くても押せば写るけどなぁ、なんて呑気なこと思っていた。
この大学院の生活は程なくして終わる。
頭で考えるよりも手を動かし、何か成果物を前にしたいという時期であった。
アートディレクターはしばらくいいわ、てな感じで残ったのが写真。ここから写真系の何かを目指すことになる。写真に関われるならとりあえずなんでもよくて、後は自分で好きに制作出来れば十分だと。
つまり消去法によりこの道へ進んだのである。(残り物には福があったのかもしれない)
ちなみに、大学院時代に触れたロジカルな進め方は、今現在かなり役に立っている。
余談。
個人的に、カメラマン、フォトグラファー、写真家は似て非なると思っていて、この解釈は人それぞれ、諸説あるが、
・カメラマン→ムービーのカメラマンを指す。日本ではこの呼称が一般的であるが、なんとなくプロアマの垣根が無いイメージ。
・フォトグラファー→作家であり、商用もこなす。割合は50/50。
・写真家→作家、アーティスト寄り。主に作品制作が軸。商用撮影もこなすが作家性が強い。
と認識している。
話を戻します。
紆余曲折あり、京都にてようやく写真業(商業写真、頼まれ仕事)のキャリアをスタートさせるわけであるが、肩書きはどうすれば?と思っていた。
自分の写真に対する方針は、自分の写真(わかりやすく言うとアート作品)がベースで、仕事として商用仕事もこなすが、自分のカラーも織り込んで行きたいところ。
その当時、商用デビュー?にあたり、お世話になったフォトグラファーの先輩に相談したところ
「フォトグラファーでええんちゃうかな。カメラマンは海外ではあんまり使わへん。ライターも日本だけで海外ではジャーナリストやな。フォトグラファーやったら、コマーシャルの仕事もアートの仕事も両方の意味合いでいけるからな。」
みたいなことを教えてもらい、それならばと肩書きはフォトグラファーにした。
ただ、漠然と写真家になりたいと思っていた私は、自分名義の写真集(商用)が出せたら写真家と名乗ろう思っていたのであった。
―――写真の仕事を始めて約16年後の2013年、ついに一冊の写真集が出版されることになるのである。
30代最後の滑り込みセーフ?で写真集を発表することが出来た。
その写真集は主にオタク属性、マニアックな女子の部屋とその部屋主を撮影した「堕落部屋」>という写真集である。
京都(関西圏)での活動はなかなか厳しいものがあり、色々と思案した結果、京都でのキャリアを一旦終了させてベースを東京に移したのが2005年。
いつか必ず写真集を出してやるメラメラ、という執念じみた思いで制作し続けていた。
東京に来てからは、秋葉原のアイドルを撮影することが増え、アイドルを通して秋葉原を見る、みたいな写真集を作りたいと思っていた。
アイドルのファンブックやグラビア的なものではなく。
今でこそアイドルをモチーフとした作品は溢れているが、その当時はまだアイドルをモチーフにしたアート的趣向の作品は少なかったように思う。アイドル自体も今ほど存在していなかったし、アイドルをモチーフにすることは特殊なことだったらしく、奇異な目で見られることも多かった。
秋葉原でインディな活動をしていたアイドルたちは、地下アイドルとしてマスコミやバラエティで面白おかしく取り上げられていた影響もあったように思う。
名前が先行するような、被写体個人が主役の作品ではなく、その被写体を知らない人が見ても何かを感じるような客観性の強い作品になるよう意識しながら制作していた。
個人的には、人物も風景だと思ってる節があり、人を人として意識せずに見ることによって、客観的な雰囲気がでるのではないかと考えている。
なので、積極的に被写体とコミュニケーションは取らないほうである。苦手なだけであるが・・・。
とある現代美術のグループ展に誘われ、アイドルが被写体の作品を引っさげて出展した時のこと。
他の出展者が私の写真作品を見て
「私、出版社でバイトしてるのですが、うちの編集者こういうの好きそうなので、一度会ってもらえませんか?」
と。お?いよいよチャンス到来????ポンポンと話は進み、後日、出版社へ。
前述した通り、私は秋葉原のアイドルの写真集を作りたいと思っており、そのつもりでプレゼンの準備をしていった。
そして、ダミーブックをひととおり見てもらった後、その編集者は
「アイドルの写真集は出せないけど、作画用途のポーズ集をアイドルで撮影してもらえませんか?」
という話になった。
写真集とは言っても自分名義ではなく、撮影者としてクレジットされる頼まれ仕事の依頼であった。
断る理由もないので受けることにして、そのまま雑談は進んだ。
話の中心は被写体となったアイドルが生活していた寮の話。
アイドルの仕事は時間が不規則。乱れた生活の中、部屋も荒れてしまい、その様子を自ら「堕落部屋」と呼んでいる、というような話をした。
その瞬間に目の前の編集者2人は
「堕落部屋!!!ww????」>
と、どよめいた。
「その部屋見てみたーい!写真ないですか?」
「それいいかもー」
と勝手に盛り上がってるのを観察していた。
自分は部屋の写真には興味ないしめんどいな、くらいにしか思っていなかった。
しかも部屋の写真はパイオニアが居るからなぁ・・・、と。
そしてこの日は、とりあえずポーズ集をやるということで、編集部を後にした。
後日、編集者から電話。
「ポーズ集は無くなりました。しかし会議で堕落部屋の話をしたところ大盛り上がりになりまして、なんでもいいのでアイドルと部屋のセットで写真3組ほど用意してもらえませんか?」
と。
めんどいなと思ってたことが進行し始めてる笑、しかし写真集出せるなら、とりあえずやってみっか、、、。
ということでストックから適当に部屋と人物を組み合わせて提出した。
さらに後日。
「ウケは良かったんですが、もうちょっとリアリティのあるものが見たいということで、実際に撮影してきてもらえませんか?」
まじかーwww。
ということで、実際に撮影することになった。
そろそろ私は腹を括らねばならないらしい。実際に撮影するにあたり、自分自身にどう落とし前を付けるのかを自問自答した。部屋の写真にはあまり興味はない。しかし、写真集は出版したい。モチベーションは維持出来るのだろうか…?
自分は風景写真が好きである。
人物も風景として捉えるくらいだ。
「部屋もひとつの風景なのでは?」>
そうピントが来た瞬間、落とし所が見つかった。
一風景として部屋を捉えればいいと。
そして、実際に撮影した写真は会議で好評を博したらしく、出版が決定したのである。
出版が決まったのは良かったが、3か月で50人撮影するという条件付き。
単純計算で、2日に一部屋は撮影せねばならず、3か月のうちアポイントメントや部屋主探しもそこに含まれているのである。
結局最初の1か月は部屋主探しとアポ取りに費やし、ほとんどの撮影は3か月目に集中したのであった。
そして、52名の協力のもと一冊の写真集が完成したのである。しんどかったー笑
というわけで次回は、近年に撮影した堕落部屋の写真を見ながら解説などしていきましょう。
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