コンテストに応募しようと考えたことさえない私ですが、妻がこっそり応募したBUNCAさんのコンペで、審査員特別賞という驚きの結果を頂き、有難い思いと戸惑いがありました。
しかし、私の想うイメージが誰かに伝わるということは、本当に嬉しいことでした。
ありがとうございました。(妻にも感謝です)
BUNCAさんの担当の方から質問をいただいたので、恥ずかしながらペンネームの由来を記します。
KeithTaylorBFAとのペンネームは、元々ストックフォトのアカウント用に作ったものですが、The Rolling Stonesの熱烈なファンの方にはピンとくるのではないでしょうか。
Keith Richardsは私と誕生日が同じで、カッコいい人だなぁと思っていたので頂きました。
Taylorの方は、Mick Taylor…ではなく、当時好きだったTVドラマ「CSI NY」でゲイリー・シニーズが演じていた主人公「Mac Taylor」から取りました。
BFAは「Bachelor of Fine Arts」の略で、登録するために追加しました。
_______________
写真自体はティーンエイジャーの頃から遊びと興味で始めましたが、写真を表現として捉えるようになったのは、学校で学んだことに始まりました。
学生の頃は、写真とは何か、毎日のように考える日々でした。
「現実」がなければ、「写真」は存在しない。
コンストラクティッド・フォトのように、写真の特徴を逆説的に利用し、虚構と現実の間に写真を置く表現方法は当時からありました。「ネット」と「リアル」の二つの世界が既成事実化している今の世では、写真のもつ記録性を利用して、虚構を「リアル」風にしてしまうことなど一般的ですが、記録性の否定は既に始まっていました。
しかし、現実を「作り出す」なら、あえて写真を撮る理由はないと私は思っていました。
記録性があるが故に、現実の中にある非現実こそが、写真でしか表現できないことなのではないかと、考えていました。
記録性という機能により、写真が内包している「時間」と「空間」については、私に教えてくださった若い准教授がよく口にしていました。それで、私もよく考えていました。
それは特徴でもあり、宿命でもある。
写真に写りこむ情報が、表現の可能性を狭めてしまう。そう考えた私は、この「時間」と「空間」の縛りを超えるために、写されているものの一切の属性を排した作品づくりを始めました。そして普遍的な「現実」を表現しようとしました。
或いは、若かった私は、写真表現を自分自身のことに準えたのかもしれません。
全ての呪縛からの脱出を、写真のなかで叶えようとしたのでしょう。
その試み自体は、私のなかで完結することなく不完全な形で放置されたまま時が過ぎ、暗室で作品が製作される時代から、明室で全てができてしまう時代へと移ろっていきました。
1980年代もデジタル写真という言葉がなかったわけではないですが、アンセル・アダムスの手法を写真の根本原理としていた当時の私にとっては、全く縁遠い世界でしかありませんでした。
そんな私もデジタルカメラ機材が表現に耐えうるレベルまで進化した頃から、デジタル写真とともに写真表現の世界に戻ることにしました。
デジタル化は、大きな利便性をもたらしました。機材は軽くなり、感度は考えられないほど高くなり、一枚の撮影の際の集中力は必ずしも要求されなくなりました。環境のよくない暗室作業からも解放されました。それはそれで素晴らしいです。
デジタル化により、銀塩写真では非常に難しい画像の編集が完成度高く行えるようになり、写真のもつ根本的な宿命からは解放されました。しかし、同時に原理的な特徴は失われたことにもなります。
今や写真の記録性への幻想は言わずもがなですが、コンストラクティッド・フォトとは異次元の、擬似現実の虚構世界を作り出すことなど容易い時代になりました。
しかし、それは果たして写真なのか。それとも、写真を使ったアートなのか。
その特徴は、もはやオールド・スクールの写真とは違うものなのだろうと思います。
利便性は認めつつもデジタル写真に対する疑念は今もありますし、銀塩写真に対する信仰はいまだに捨てることはできません。名作のオリジナルプリントには言い知れない感動があるのもまた確かです。
無論、デジタル写真の可能性はまた別のところにあるでしょうし、私自身も向き合っていかなければならないと思っています。
作品作りの観点では、写真に対するスタンスは変わりました。
それは、齢を重ね自分自身の存在に対する考え方が変わったこともあるのでしょう。
当初考えていた写真の特質である「時間」「空間」は、束縛と捉えるよりも活かしていくべきではないのかと思うようになりました。
現実と写真との関係性以前に、自分と写真との関係性の方が実は問題なのではないか。表現とはそもそも自分の内面が表出した形だからです。
写真に普遍性を求めた自分ではありましたが、そもそも普遍的な存在ではありえない自分が、自然体で現実と向き合って写真として結実したとき、その写真は普遍的な表現にはなり得ないと考えるようになりました。
つまり、写真こそが自分自身の存在の証明であって、写真が現実世界と自分とを結ぶ結晶となるのではないか、と思います。
かといって、日記をつけるように写真を撮るつもりはありません。自分とリンクした写真表現であっても、それで自分自身を表現しようとしているわけではないからです。
やはり求めているのは自分が内包している理想の写真(光景)なのであり、それが自分にとって写真の本質的な姿ではないかと思うからです。
私は人生とは「彷徨うこと」だと思います。
私にとっての彷徨うこととは、特別な「光」「時間」「場」との出会いを求めて移動していくことで、今、私が写真を撮るのはその特別な何かとの出会いを、写真と言う形として残し表現するためです。
それは学生の頃に一年間オーストラリアに滞在し、自分や自分の写真と向き合ったことが原点となっていて、現在の、世界中を彷徨い様々な光景と向かい合い、制作をするという手法へと繋がっています。
世界を彷徨っていると、人間が根源的に求めるもの、価値観の多くの部分は共通していることに気づきます。言葉は通じなくても、大体人が求めることが類推できるのはそういうことでしょうし、各々平和に幸せに暮らしたいと思うのは変わらないと思います。
自分の表現を世界中で無条件に受け入れてもらうには、普遍性が必要だと考えていた私は、ただ狭い世界を見ていたに過ぎなかったのかも知れません。
違うのは環境であって、人ではない。
世界中どこでも、自分の残した足跡は変わりません。
クラウドファンティングを立ち上げたい方はコチラから
その他、掲載中の記事は ↓コチラ↓ から
#Musician
#Fashion
#Photographer
#Novel
#Pictorial
#コンペ特集
#お役立ち情報
#スタッフブログ