このエッセイは小説が書きたい作家志望者にアドバイスをする熱血文章である。日本文学界に於いて全く異端の僕が、僅か数分で、無名で荒廃している今の貴方を未来の芥川賞作家に仕立てる奇跡の技を余すところなく伝えるものである。
ノベルズウォーズ
(これを含めあと、2回で終わります!)
第25話
微笑む女神——又は、正しい作家になるために>
(『スクールウォーズ』の白眉といえばやはり伊藤かずえさんでせう。謎の美少女という設定で、恋人の宮田恭男が先輩にイジメられてると何処からか白馬に乗って現れ撃退するし、レモンが好きという理由で常にレモンを持ち歩くし……)
『文豪ストレイドッグ』に感化された……。そんな理由で小説を書いて構わないと申しましたが、僕は2話までしか観てない。これに就いてまるで語れないのですが、芥川龍之介は白いジャボ付きブラウスに黒いロングコート、太宰さんは黒いベストに高襟シャツ、ループタイを締め、バーバリー風のトレンチコートを羽織っておられるようですね。
未来の芥川賞作家にするノウハウを、僕はもう貴方に殆ど授けました。でも肝心なことを書き忘れました。貴方が小説家になりたいのであれば、カッコよさを死守して下さい。
僕達がイメージする作家は、大抵『文豪スレイトドッグ』に登場するような、いわば近代文学の人達でせう。芥川が『文豪ストレイドッグ』のよう、ゴシック風の装いをしていた訳はありませんが、実際、生前の芥川は東京帝国大学に成績優秀で入学、『新思潮』に参加、23歳で『羅生門』を発表、その後、『鼻』を夏目漱石に絶賛され、一躍、文壇の寵児となったまさにスーパースターでした。作品を評価しない人ですら、若くして和漢の古典に精通し、原書でイエィツやアナトール・フランスを読破する彼の才気には敬服していたそうです。太宰治が芥川に憧れたのは有名な話ですが、果たして作品にどれだけ感化されたかは解らない。しかし芥川という作家のカッコよさに心酔していたは確かです。
「モオパスサンは氷に似ている。尤も時には角砂糖にも似ている」(『侏儒の言葉』)——何の前置きもなくこんなアフォリズムを読まされた日にゃ、思春期の文学青年はノックアウトされちゃいますよね。モオパスサンって何だ? フランスのお菓子か? 皆目見当が付けられなくとも、興奮してしまう。こういうのに影響され、太宰さんは『晩年』の冒頭を飾る『葉』を書いた。「白状し給え。え? 誰の真似なの?」——そりゃ、芥川さんの真似。だって、カッコいいんだもん。
僕は中学に上がると同時に、この太宰さんの『晩年』の洗礼を受けました。あけすけに申せばカッコいいと思った。セックスピストルズと同じくらいの衝撃でした。読まなければもう少しマシな大人になっていたと思います。少し逸れますが、アンディ・ウォーホルは、ソファに寝転ぶ美形のカポーティの写真を観て、「うわ、カッコいい。僕、文章は書けないから絵で有名になって彼とお近付きになるんだ!」と決めたそう。
文学フリマが盛んで、作家志望者は増える一方なのに、出版の世界はジリ貧。芥川賞の発表も大したニュースにならない最近の事情を解析すると、作家になりたいけれど、同じ時代に活躍する作家で憧れの対象になる人がいない、カッコいい作家といえばやっぱり近代文学の人達と、皆が思っているのが浮き彫りになるでしょう。
実際、近代文学の作家はカッコいいんですよ。芥川と谷崎潤一郎のように、意見を違えた者同士が、文芸誌で反論を出し合って喧嘩するなんて茶飯事でしたしね。派閥に分かれていがみあったり、危険思想だと判断され逮捕、牢に放り込まれたり、女給と駆け落ちしたり……。今も昔も文学をやるのは、もやしっ子ですが、尾崎士郎は気性が荒く、宴席などで気に入らない相手がいると殴っていたらしい。素行が悪いのがカッコいい訳ではないですが、近代文学の作家は、本来、エリートなのに、文学の毒に魅入られ、ヤクザ者として生きるを決意した者が殆どですから、落伍者としての美学に拘泥したのです。だから現代に生きる僕達からみてもカッコいい。
『侏儒の言葉』にはこんなアフォリズムもあります。「文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ。」
『文豪ストレイドッグ』のキャラクターのように容姿がカッコよくなければとか、必殺技を使えなくてはというのではない。僕が考えるカッコいい作家の条件の一番は、世間に媚びないこと。傲慢であること。また、『侏儒の言葉』より引きます。「文を作らんとするものの彼自身を恥ずるのは罪悪である。彼自身を恥ずる心の上には如何なる独創の芽も生えたことはない。」——小説に限らず、文章を人に読ませることそのものが傲慢な行為、恥ずかしいのなら読ませるなってことです。完全なフィクションであろうと、読む人が読めば、作者の人格なぞいとも簡単に透けてしまいます。文を書くとは恥を掻くことです。ですから取り繕ったカッコよさなどすぐに露呈してしまう。僕等は、太宰治のダメさ加減に辟易としながら、でも、作家としての彼に恋してしまうではないですか。なんだかんだいっても、近代文学の中で圧倒的にカッコいいのは太宰さんなんですよね。或る時は「選ばれてあることの恍惚と不安」とヴェルネールを引用しながら、或る時は友人の詩人、寺内寿太郎の「生れて、すみません」を無断借用する彼の言葉に一貫性なぞありゃしませんが、騙されてしまう。カッコいいから仕方ない。「生れましたことに、ごめんなさい」では、同じ意味だとて、カッコよくはない。
ギリギリの場所に身を置き書く文章だからこそ、読む者に響く。現代の僕達はネットリテラシーなどを憶えてしまったが故、逃げ道のある文章しか書けなくなっています。僕はねぇ、自分がいい作品を書いているかどうかは別にして、常に、これを読んだら貴方が死ぬかもと思いつつ、どんな短い文章も綴っているのですよ。その覚悟がないと人に宛てた文章など書いてはならぬと自戒しています。
「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」(『侏儒の言葉』)——醜さは人を延命させるが美しさは人を殺めるだろう。ならば僕は貴方を殺す。貴方の中に美を見出したのだから。
芥川先輩、どうです? このアフォリズム。太宰さんよか巧みでしょ。白状し給え。え? 誰の真似なの? 否、これはオリジナル。芥川先輩、僕はカッコよくありたくて、今日もお金がないのにリボ払いで、CELINEのシャツを買いました。売れなくなり、昔のように印税も期待出来ないので、明日からローソンで深夜のバイトをします。あの蒼いユニホームの下に、そっとCELINEのシャツを着込むのです。
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