このエッセイは小説が書きたい作家志望者にアドバイスをする熱血文章である。日本文学界に於いて全く異端の僕が、僅か数分で、無名で荒廃している今の貴方を未来の芥川賞作家に仕立てる奇跡の技を余すところなく伝えるものである。
ノベルズウォーズ>
(今回の実践編では、登場人物の設定の仕方を教えます)
第23話
下町のヒーロー——又は、名言は雑魚キャラに託せ>
(『スクールウォーズ』で梅宮辰夫が死ぬ回、梅宮辰夫ってやっぱりカッコいいなぁと惚れ直します。でもやっぱり一番は『仁義なき戦い』の若杉役で、菅原文太と兄弟分の契りを交わすシーン、もう最高に B Lです!)
キャラ設定に関しては、デブ、眼鏡くん美形……。好きにすればいいのですが、カッコいい台詞は主人公にいわせないで下さい。この台詞が肝というものは雑魚キャラにあてがう方が、響きます。
『ちはやふる』でも主人公の綾瀬千早は特に名言を吐かないし、彼女と両想いのカルタのサラブレッド、綿谷新も大事な試合の日に下痢をしたり、どっちかというとマヌケじゃないですか。「矢面に立たなくなった瞬間から/力の現場維持さえ難しくなるんだ」とシビれる言葉を発するのは肉まん君だし、どんな自己啓発本も色褪せてしまう「やりたいことを思いっきりやるためには/やりたくないことも思いっきりやんなきゃいけないんだ」など教訓を連打するのは机くん。太一も「運命なんかに任せねえ」と胸キュンな台詞を多数、いいますが、これは彼が容姿端麗、学力優秀、非の打ちどころがないのに、好きな千早には片想いなのを読んでいる僕等が知っているからこそ、共感に絡がるのです。
『がんばれ太宰くん』に於いても、太宰はいいとこなしです。#21で「俺は憶病な人間が好きだ」と渋く決めるのは太宰から「本当に性格が悪い」と評される坂口安吾。安吾は更に太宰の引受人になるものの、大阪人は下品と馬鹿にされたが故(#14)、泉鏡花に私怨を滾らせる一寸、単細胞な感もある織田作之助の人となりを「織田はお人好しです」と尾崎翠に語り、読者に対し織田の好感度もさりげなく上げる役割も持ちます。そしてヒロインとして登場する尾崎翠が「スケベならばスケベであられる何某かの……きっと、のっぴきならぬご事情がおありなのだろうとつい」と太宰を擁護するけなげなキャラだからこそ、主人公の太宰は最後、一寸、カッコいい息巻きをするが可能となるのです。主人公を輝かせるには脇役から——急がば回れ——です。
それくらいは知っていると失望なさったかも知れませんが、脇役をしっかり書くというのは関係性や属性に限ったことではないのです。持ち物や部屋の様子も脇役ですし、学歴、職業、頻繁に使うコンビニだって登場人物のプロフィールを提示する上でとても重要といえます。初対面が集まった時、僕等は自己紹介をするでしょう。大抵は好きな音楽やら趣味を述べて自分を解って貰おうとしますし、相手を区分けします。いきなし「私は心がキレイです」とか「マルクス主義者です」と説明する人はおらぬ。本来はそこを語るべきであるに拘らず……。
今度は『ドラえもん』を例にとりますが、のび太のことを語るにはジャイアンやしずかちゃんも必要だけど、一軒家の二階に個室を有していることも描いておかねばならず、彼が使っている平凡な勉強机に抽斗が付いてる記載がおざなりだと、ドラえもんは上手く登場出来ないということがいいたいのです。のび太の家がアパートで自室を持つ設定でなくともドラえもんは未来からやってこられます。絶対に机の抽斗からやってこなければならない理由などないのです。かといって、或る処に怠け者だけど根は優しいのび太という小学生がおりまして、彼は未来の猫型ロボットに訪問を受けました——では、読者が感情移入やれないではないですか。
どんな音楽が好みでどのコンビニで何を買うのを習慣にしているか、作家の中には設定を細かくノートに記してから作品に取り掛かる人もおられます。行き当たりばったりな人もいます。僕は行き当たりばったり派ですが、主人公が何処に住んでいるかだけは最初に決めておくようにしています。だって原宿にお買い物に行く話を書くとして、世田谷区に住んでる人と八王子に住んでいる人、埼玉に住んでいる人では、交通の便が違い過ぎますから。埼玉に居住する人が夕方、急に思い立ってラフォーレ原宿に行ったなら、着いた頃、もう閉まっているじゃないですか。『下妻物語』も主人公の桃子が住む場所の設定で一番、苦労しました。偏愛するメゾン、ベイビーザスターズシャインブライトの本店がある代官山まで、直線距離はさほど遠くないけれど電車を乗り継ぐと半日くらい掛かる場所に住まわせることが肝心だったからです。
自分のことを申せば、僕はそれと同時に全ての人物の設定をどんなお洋服、何処のメゾンのお洋服をどういうふうに着ているか? を決定することでほぼ解決します。単にお洋服が好きで、描写をしているのが楽しいというのが第一なのですが、まだライターをしている頃、才能ある若い新進作家が、コムデギャルソンとコムサデモードを混同して書いていることに驚愕し、もし自分が小説を書くことがあるならば絶対にお洋服の描写をテキトーに扱わないと決めたからです。その作家を責めるつもりはない。只、小説って読者に届くまでに編集者や校正者、いろんな人がチェックする筈なのに、誰もコムデギャルソンとコムサデモードの違いに気付かない現代文学の世界が赦せないと思ったのです。
近代文学までの作家は、被服に拘り、それへの知識も豊富でした。西洋では、バイロン卿、オスカー・ワイルドなどが有名ですが、プルーストだってタイの蝶結び(ラヴァリエール)に心を砕いたそうです。日本の文豪に眼を遣っても、皆、洒脱に心を砕きました。太宰なんぞは金がなくて流行のものが着られないと悟られるのが嫌で、ワザとボロのマントを羽織り、気にしてない振りをしました。谷崎潤一郎は、「そのうちに皆、泉鏡花を半分も理解出来なくなる。風通や一楽、なんて書かれても、どんな反物の着物なのか今だってもう知る者が少ない」と嘆いていた。川端康成だって隙あらば反物のことを書きますしね。
僕みたく、一種の衒学趣味、延々とメゾンの歴史やお洋服のディテールを他の作家も書くべきだなんて思いません。でも、例えば大江健三郎は、ジーンズをジーンズでもジーパンでもなく、ジーン・パンツと表記する。——こういう部分で、文体の香のようなものが決定されるのは確かです。文は人なり? 否、文は香なり。同じことを書いたとして谷崎と川端の文章では匂いがまるで違うでしょう。