「はぐれ者の小唄 」4回目- 小林早代子 -

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小林早代子さんの連載第4回です! 不思議なもので、この物語は全く初めて読むはずなのに、自分の経験や思い出の中で重なるものが必ずあって、懐かしいという感覚に陥るのです。「ターレササパートス・ヒンディナカターレ」、誰もがこんな呪文を一つは持っているはず。



始めてみれば棒高跳びは結構楽しかった。

ただ、何となく性に合わない気がするという予感もまた正しかった。棒高跳びは体操に近く、柔軟性を求められる競技だった。僕は、年に一度の体力測定でほかの種目は10点満点をとれたが、長座体前屈だけは5、6点にしか届かず、体力値の円グラフはいつも一切れかけたピザのかたちだったのだ。前屈をするとテディベアになってしまう僕は、ミニバス時代も監督に、ケンジ、お前は身体がかたいから絶対うまくならないよ。と言われ続けていたのだった。

そして僕は、小柄なじいさんに全体重をかけて乗っかられるかたちで背中を押されていた。

「いってーよ!」

「ケンジく〜ん、何はともあれ柔軟性だよ〜。勉強も運動も恋愛も棒高もすべては柔軟性がものを言うんだよ〜何もかもだよ」

何もかも・・・何もかもなのか・・・? と激痛を諦めかけたところで鞠子がニヤニヤ僕らを見下ろしていることに気づき、慌ててじいさんを弾き飛ばした。

言葉を選ばずに言えば、棒高跳びは僕にとってかなりオイシイ競技だった。

まず、競技人口が少ない。市内で棒高跳びの設備がある中学はうちのほかにもう1校しかなかった。

それに加えて、当時僕らの県で棒高は男女ともに強化指定種目に指定されていたから、ほかの種目と違って各校ごとに2名までなどというような出場人数制限がなく、何人でも試合に出られた。

そのおかげで市大会はほとんど校内戦の様相を呈しており、てんで緊張感がなかった。おまけに、クリアすれば県大会出場資格が得られるという標準記録もえらく低く設定されていた。僕はその標準記録を始めて一週間ほどでクリアしてしまって拍子抜けした。多分、陸上協会もわけがわかっていなかったんだと思う。きっと今はさすがにもう少し引き上げられているはずだ。

入部当時、じいさんが「変わりもんには変わった競技させとくのがいちばんいいと思って」と言っていた意味をようやく噛み締めていた。フツウの中学生にとって、棒高跳びは身近じゃなくて、「うまい」「へた」「つよい」「よわい」の価値観の外にあった。それが僕にはすごく気楽だった。

市内に20人しか棒高跳びをやっている中学生男子がいなくても、県大会に進めばみんなに「なんかスゲー」と思われた。別にすごくねーよと謙遜しても、なんかスゲーと思わせる説得力が僕にはあった。格好がついてよかった。ケンジも最初だけだったとか、陸上部に入ってだめになったとか誰にも言われたくなかった。

僕は硬いからだのまま、スピードと勘で無理やり跳躍していた。助走をとにかく速くガガガガガガと走って、良いタイミングでポールをボックスについて踏み切って、握ったポールを力技で上半身に引き寄せ、逆上がりをするように無理やりバーを超えた。競技会へ出向くと、他校の顧問は僕のきたねー跳び方に眉をひそめた。僕がきたねー跳び方のまま自分の教え子より高く跳ぶのでさらに嫌がられた。

一方で、鞠子の跳び方はやわらかで美しく、私とは全く違う競技をしているように見えた。僕の棒高跳びはスプリントの域を出ず、鞠子のは体操競技だった。たったったったっと軽やかに走ってポールをつき、空中でふわっと体をひねって綺麗にバーを超えた。しかし、跳び終えたあとで審判員の教師に悪態を吐いたりするので、僕よりもっと嫌われていた。

なんであんなに、きれいにやわらかく跳べるのか・・・。

端から見ていた時よりも、滞空時間の体感はずいぶん長かった。ボックスにポールをついて、ポールがたわんで、バーを超えてマットに落ちるまでの間、束の間の浮遊感と圧倒的寄る辺なさの中で、僕は誰よりもひとりぼっちだった。

尻からマットに落ちると、砂埃と、ポールを握る時の滑り止めに使う炭酸マグネシウムの粉が舞って、空が青いなーと思ったりして、起き上がるのが億劫になる。億劫でも起き上がって、順番を待つ部員がいればバーを指定の高さにかけてやらなければいけないのだが、そんなの無視してしばらく寝そべっているのが好きだった。薄汚いマットにからだを沈み込ませたまま、雲の動きを眺めるのが好きだった。何だかすごく自由だと思えた。他人事のような開放感があった。

いつか、鞠子に「跳んでる時、空中で何考えてる?」と尋ねたことがあった。

鞠子があの時どう答えたのか、どうがんばっても思い出せない。

夏が過ぎ、ほかの部活からの脱落者が数人入ってきた。やっぱり違うスポーツがやりたいと言って抜けていくやつもいた。部員でもないのにたむろっているやつも普段からいるので、どいつが正式な部員なのかよくわからなかった。多分じいさんも把握していなかったろう。

僕たちは、ぐにゃぐにゃとかたちの定まらない共同体だった。

秋になり、校外を散歩しながら何匹とんぼを捕まえられるかを競いながら、フィリピン人の母親を持つマーヤに「とんぼってタガログ語でなんていうの」と尋ねた。

「えーなんだろ、Dragonflyだよ!」

「英語みたい。つまんねー」

「てゆーかフィリピンにとんぼいないと思う。うち見たことないもん」

「お前が見たことないもんは存在しないのかよ」

「そうだよ!うちが世界のぜんぶなんだよ!」

「世界の密度やばいだろそれ」

あはははは! と笑うマーヤの口はでかい。顔が小さいが口が半分くらいある。僕らの会話を聞いていた鞠子は

「いない筈ないだろうが! 長渕のとんぼはフィリピンパブの鉄パンソングなんだぞ!」

と言った。何その情報?

僕たちは、暇さえあればマーヤに

「ナスってなんて言うの」「クソ野郎ってなんていうの」

などと答えさせては地道に単語を学び、嫌味な教師にタガログ語で悪態を吐くことに情熱を燃やしていた。もう大部分忘れてしまったが、当時は結構な数の単語を覚えていた。

僕たちがいちばん気に入って多用したタガログ語は、何をおいても「ターレササパートス・ヒンディナカターレ」だった。これは靴ひもほどけてるよ、という意味らしいのだが、ハリー・ポッターに出てくる呪文のようなその響きがどうしようもなく気に入ってしまって、誰かの靴紐がほどけた時には間髪入れずに「ターレササパートス・ヒンディナカターレ!」と叫んでげらげら笑った。

僕はいまだに、靴ひもがほどけているのを目にすると、心の中でターレササパートス・ヒンディナカターレと唱える癖が抜けない。

マーヤは大げさでいい加減なところのあるやつだったし、そもそもフィリピンには幼少期しか住んでいなかったというから、あの時僕らが教わったタガログ語がどれだけ正確なものかはわからないけど、ターレササパートス・ヒンディナカターレだけは本当であってほしいと思う。

マーヤと僕と鞠子とは同じクラスだったが、マーヤの天真爛漫な底抜けの明るさは、クラスメイトにまるでハマっていなかった。むしろ白ける存在として、ともすれば癇に障るとすら思われていた。

マーヤのことは軽んじてもいいという雰囲気がたしかにあった。それは、陸上部の部員たちがマーヤをからかうのとは明らかに異質なものだった。不思議なことに、クラスでも人望の薄い者ほどマーヤを虐げたがった。強い立場の者からは、マーヤはわりに歓迎されていた。

マーヤは、相手が誰であれ臆することなくクラスメイトに大声で話しかけた。ねえ聞いて聞いてーうちねーきのうねーこーんな大きいカエル見たんだよ! と表現する手振りがあまりにも大きい。ほんとだよほんとだよほんとにこーんな大きかったんだもん! とムキになるマーヤに、隣の席の男子がパチこくんじゃねー! と怒鳴り、こいてないもん! パチって何!? わたパチ!? と叫び返した。いや、授業中なんすけど・・・。

鞠子はマーヤをしもべのように扱うくせにほかの生徒がマーヤを都合よく軽んじるとぶちぎれて、男子の頬を張ったり机を蹴り倒したりした。鞠子は口は達者だけど力が強いわけではないから、やり返されたらひとたまりもなかったはずだが、そうしようとするものはひとりもいなかった。手を上げるには鞠子はあまりにも女だったし、どんな報復が舞い戻ってくるかわからない底知れない恐ろしさもあった。

「せんせい、トイレ行ってもいいですか」

授業終了時刻の数分前、マーヤは手をまっすぐ挙げて言った。いつものことだ。男子たちは、お前またかよー! 膀胱どうなってんだよ、と野次る。

マーヤは棒高跳びの試合の時もそうだった。自分の試技順が近づくとにわかにソワソワし出して、慌ててトイレに行くのだった。そのまま時間までに戻って来られない時もままあった。たいてい鞠子が審判に適当なことを言ってごまかしていたが、一本分失敗扱いにされてしまうこともあった。マーヤは熱心な部員だったので、その試技一回分の×が響いて順位が下がってしまった時は泣いて悔しがっていた。

じーさんの車で遠方の競技場に向かっている時も、もうすぐ駐車場に着くという頃になって降りたいと叫び出すのでじーさんを慌てさせた。

トイレに行くと訴えたマーヤが、実際に何をしていたのかを僕は知らない。

初めのうち、「お前さあ、自分がどんだけ周りにメーワクかけてるかわかってんの」と、マーヤに言って聞かせようとしたことが幾度かある。そういうときの、素直に「うん、ごめんね」と謝るしょんぼりした表情も、その場から脱出しようとする時の切迫した表情も、あまりにてらいがないので、僕の方がどうしたらいいかわからなくなってしまうのだった。

授業の終わり間際に席を立とうとするマーヤに、もう少しで終わるんだから我慢しろと出て行くことを断固として許さない教師もいた。マーヤはそんな時、許可を得ずに走り去ることもあれば、机に伏せってじっと耐えていることもあった。

一度、教師が、マーヤの退室を許さなかった時、僕の方がいてもたってもいられなくなり、立ち上がってマーヤの手を引いて2人で教室を出たことがあった。その日の昼休みに揃って教師に呼ばれて事情を説明するよう言われたが、マーヤはうまく説明ができず泣き出した。僕も、マーヤが説明できないものを自分が言葉にしていいのかどうかわからなくなって押し黙ってしまい、ただ目の前の教師を睨みつけることしかできなかった。

職員室を出て、お互い無言のまま、意味もなく早足でしばらく歩いた。

「お前さあ、怒ってよかったんだよ」

僕が立ち止まって沈黙を破ると、マーヤは目を丸くして聞き返した。

「怒ってよかった?」

「お前は悪くないのにあいつに傷つけられたんだから、怒ってよかったんだよ!」

「怒っていいっていうのは、怒らなくてもいいってこと?」

マーヤの表情は多弁で、濃い眉がくるくると動く。

「よくわからない。怒ってよかったっていうのは、怒った方がよかったってこと? うちは、悲しかったけど、怒ってはなくて、それでも怒った方がよかったってことなの? ケンジは、今うちに怒っている? それはどうして?」

どうしてって、と僕は言葉につまる。

「お前は陸上部のもんなんだから、俺たち以外の前で泣くな!」

「よくわからない。うちをものみたいに言わないでほしい」

戻ってきた僕たちに向かって、鞠子はもっとうまくやりなよと言った。ほんとにそうだ。

その言い合いをきっかけに、僕たちの間の目に見えない連体感のようなものが強まったような気がした。それでも、クラスメイトにケンジはマーヤのことが好きなんじゃないかとからかわれた時には、あんな女は趣味じゃない! とマーヤを目の前にして言い放った。それに対してマーヤは怒った。明確に怒った。あらゆるものを放り投げて怒った。いやめっちゃ怒るじゃんお前。

僕たちにとって、マーヤの「脱出」は、ワガママでもメーワクでもなく、いつしか「そーいうもん」として馴染んでいった。とりわけ、僕と鞠子は、マーヤの脱出ミッションをよりスムーズに遂行することにやりがいを感じるようになった。
口八丁手八丁で、なるべくなら面白く、その場からマーヤをさっと逃がすことに心血を注ぐようになった。その後2人で、お前あの言い訳は無理があるだろう! と言い合って笑い転げるのが好きだった。

マーヤにも一度訪ねたことがある。お前、跳んでる時何考えてる?

「別に何も考えてないけど。何もかも心配ない!って気持ちになるよ。ケンジは?」

そう、僕は自分がこの時なんと答えたのかも覚えていないのだ、おれは・・・。




【お知らせ】
「はぐれ者の小唄」は作者意向により休載とさせて頂きます。



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小林早代子
92年生まれの小説家。
第14回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞受賞。
新潮社『くたばれ地下アイドル』
「はぐれ者の小唄 」4回目 - 小林早代子 -
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