このエッセイは小説が書きたい作家志望者にアドバイスをする熱血文章である。
日本文学界に於いて全く異端の僕が、僅か数分で、無名で荒廃している今の貴方を未来の芥川賞作家に仕立てる奇跡の技を余すところなく伝えるものである。
(オープニングテーマのイントロが鳴り、)
ノベルズウォーズ
(タイトルの後、廊下をバイクが走るシーンのインサートを想像したならば……)
第1話
それは太宰ではじまった
(——サブタイトルが入ります)
と、これくらいのインパクトの書き出しを思いつけないようなら諦めたほうがいいですよ。
でもやり過ぎると逆に嫌われるんです。
特に原稿の下読みをする若い編集者なんてものはねぇ、自分が本当は作家になりたかったものですから、意表で目立とうとする新人に対しモノスゴく嫌悪感を持つんです。仕事の傍ら、家に帰ればせこせこと自分も新人賞の為の作品を書いている奴等ばかしですよ。
だけどそのうち、一年か二年もすれば、一回賞を獲ったくらいじゃまるで続かない、二作目くらいは書けば載せてくれるけど、その後、数字を獲得やれなきゃ原稿を読んでも貰えない作家の現実——無論、食べられる訳もありません——虚しく消え去っていく者の方が圧倒的に多いこの世界の事実を目の当たりにし、あー、サラリーマンで良かったぁと、胸を撫で下ろすのですよ。
一応、それなりにいい大学も出てるし、無謀な夢の為に我が人生を台無しにしなくて助かったと、応募してくる者達の原稿の山を観ながら、此奴等、バカだぁ、そっと、北叟笑むのですよ。
よく考えてご覧なさい。ライトノベルでもよござんす。
10年前に人気だった作家のどれほどが今も新刊を出しているか?
とりあえずデビューしてしまえばバンドや美術家よりも小説家は息は長い——というのはとんだ思い過ごしです。それでも作家になりたいとおっしゃる? 何故? カッコいいから? そうですね、肩書きとしちゃ作家はカッコ良いものだと思いますよ。だけどそのカッコ良いとイメージする作家が現代にいますか? 思い浮かべるのは芥川龍之介やら太宰治という近代の作家でしょう。
かくいう僕も、太宰治に憧れたクチですよ。
正直に申しますとね、中学生の時、太宰を読んでしまい、「この人の苦悩は自分にしか解らない! 解る訳がない!」と胸が締め付けられ、文学にのめり込んだんです。その後、「この人の文体は潜在的二人称を用いているものですから、読む人が自分だけに語りかけられている錯覚に陥るんです」と、ある学者さんが解析しているのを聴き、騙されてたのか……、気付くんです。
この潜在的二人称をやらせれば、太宰先生程に巧みな方は今も昔もおられますまい。
何度かの自殺未遂、酒、薬での身の持ち崩し、借金、ふしだらな情愛……。ダメなプロフィールの全てが逆に知的かつナイーブなものに受け取れてしまう。
無頼派、デカダンスという紹介もなされますしね、「ワザとじゃないんです」と溜息吐く文章を読まされれば、ワザとじゃないよね、つい、頷いてしまうし、また「ワザとなんです」と書かれれば、あたかも自分の心中を言い当てられたの如き、驚きを憶え、頷いてしまう。だけども、これ、全部、太宰先生の計算なのですよ。ここではワザとではないといっておいたほうが気を惹く場合、ワザとだといったほうが共感される場合を、先生は巧みにお使い分けなさるんです。
でもって、そんなことばっかやってるのでいい加減、バレるかなぁという矢先、読者に対して「嘘だー! 俺の言葉は全てニセモノだぁ!」と開き直ったりなさる。——しかしこの開き直りもまた計算です。そんなことないよ……こちらが合いの手を入れるのを知っていてそれを書く。嫌な男です。
お察しですか。
この文体、これ太宰先生の模倣です。リズムの取り方とかね、展開の形式が太宰調なのですよ。これくらいのモノマネが簡単にやれるようでなきゃ、プロの文筆家とは呼べません。お望みとあらば、鴎外先生でもハルキ先生でも器用にやって差し上げますよ。
いいですか、貴方は作家になりたいのでしょう? これくらいのこと、うんざりされちゃぁ困る。
作家というのはまことしやかな嘘を吐くのが商売です。自分の気持ちを伝えたいなら、作家なぞ諦めたほうが身の為ですよ。貴方が何をいいたいかなんてどうだってよい。何をいって欲しいのかに気を配るのが作家の仕事なんです。
コンビニの店長と同じです。売りたいものばかり勝手に並べてあるコンビニに客は入らない。売りたくなくとも歓楽街の中にあるコンビニは、エロ本を並べなきゃならない。
巣鴨に行かれたことはありますか? あすこは昔からお婆さんの原宿の呼び名が付くくらいに老人ユーズの街ですからね、大手チェーンのドラッグストアでも店頭に、紙おむつだったり健康茶だったりが場所を取り、コスメ用品なんて申し訳程度にしか置かれてはいない。書くことで救われようなんてムシのいいことを願っちゃいけません。書くことで救うんです。どうして貴方を救う為に、見ず知らずの人が時間と労力を掛け、その妄想に眼を通さなきゃなんないんです?
太宰先生に誉めてあげられるところがあるとしたなら、嘘しか吐かねど、一瞬、読む人をラクにさせてあげることだけは、ちゃんとなさっておられる部分です。俺の方がマシだでも、俺よかマシだでも、俺と同じだ——でもいいんです。
一応、歓楽街にあるコンビニのエロ本くらいには人の役にたっておるので、彼の作品は今でも残っているのです。
太宰治といえば大抵の人が、左手で頬杖をつき憂鬱気に考え込んでいるポートレイトを想い出すでせう。
世俗の厭らしさにうんざりしたような、己が生きる理由を思い倦ねているような眼差し、表情……。
あれこそが、あの人のお得意のポーズなのです。何時もあんな顔している筈ないじゃないですか。常にあれだとして、写真を撮られておるのです。注文されたか自分からそうしたかは解らねど、カメラを意識しているのは確かです。「太宰さん、デカダンスな雰囲気でお願いしますよ」といわれ、わざわざ目線を外したりしたのです。「おー、それそれ。陰気です。もっと額に皺を寄せてみましょう」とかおだてられながら、思いきり作家っぽく自分を演出したのです。
太宰先生は芥川龍之介に憧れたクチですからね。芥川のポートレイト——デコの異様に長い男が左手を顎に置いて斜を睨んでいる、誰が観たって狂気をはらんでいる、やはりお馴染みの写真——をカッコええなぁ、若かりし頃に拝み、作家への夢をたぎらせていたに違いない。自殺未遂を繰り返したのは芥川の真似でしょうね。
芥川の自殺動機の動機は「ぼんやりとした不安」ということになっています。
作品より、太宰先生にとってはその自殺理由がカッコよかった。人はぼんやりとした不安というもので自害することがやれるのだ。まぁ、今でもそう書き遺して死んじゃえばカッコいいですよ。知的この上ない。
近代という時代に於いて、ぼんやりした不安から死に至るってのは最先端だった。不安そのものが近代になって顕れた概念ですからね。その芥川さんにしろ、ニーチェに感化されていた。思想というより、ニーチェそのものに衝撃を受けていた。
当時、ニーチェは狂死したと伝えられていました。海の向こうには考え過ぎて死んじゃう哲学者がいるんだ、スゲーな、カッコええなぁ(頭が変になっていたのは事実ですが、死因は肺炎)と、ときめいていたのです。もしかすると「ぼんやりした不安」と書いてみたのは、自分もニーチェのように思われたかったからかもしれません。
狂気に至る者こそが真のインテリだというイメージを近代の一部の日本の芸術家達は持っていました。自分の耳を切ってしまったゴッホの逸話とかを、カッコええなぁ!と崇めていた。無論、素直にカッコええなぁと口にすると、俗物だとバカにされるので、こっそりと思っていた。
狂気がカッコいいかはさておき、僕がお伝えしたいのは、昔も今も、作家は純粋に作品を書いておらぬということです。
カッコよく思われたくて懸命に文章を紡いでおるのです。スケボーやってるニイちゃんと同じです。ですからねぇ、書くべきテーマは何か? と苦悩してみても仕方ない。作家になりたいなら、どういう作品を書けばカッコ良く思って貰えるかを追究するほうが手っ取り早いのです。但し、太宰先生を見倣い、その本音は決して他言してはなりません。
とても真面目な顔つきで、生れて、すみません——呟くのです。
ご一緒に、ポテトは如何です?——訊いてみるのです。
訊かれたらついポテトも頼んでくれる人がいるじゃないですか。僕等はそういう人があの時、ポテトを頼んで良かったなと思えるよう、次の作品の用意をすればいいだけです。
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