はじめまして。SF音楽家を名乗る吉田隆一と申します。
音楽家ですので作曲と演奏活動を行ってます。そしてSFやアニメ等についての文章を執筆しております。私は「音楽とはSFである」と考えておりますので、作曲/演奏活動もSF活動ですね。
さて今回は、私が十代の頃から最も多く読み返していて、時節柄やはり気になって読み返したSF小説、小松左京『復活の日』についてお話しします。
……その前に、まず注意です。
COVID-19による社会の変化の只中に居ながら本作を読むというのは「なかなかな」体験ですので、そうした行為で不安を増進させる恐れがある方にはあえてお薦めしません。本稿も、それを踏まえて読んでいただければ幸いです。
『復活の日』は1964年に発表された長編小説です。兵器として研究/培養されていたウィルスの漏洩により人類が滅びに瀕する様を描いたSFです。1980年には映画化もされ、小松左京氏の作品中、代表作である『日本沈没』に継いで知名度の高い作品と言えましょう。
本作は、主に「極限状況におかれた社会のシミュレーション」で構成された物語を通して、重層的なテーマを描きだしています。メッセージ性も高いのですが、その「メッセージ」も複数仕込まれています。
わかりやすく一番大きなテーマは「医学と兵器」を巡る皮肉な構図を軸にした文明批評です。この皮肉は小説のラストで登場人物の手記の形でも提示されるので伝わりやすいかと思います。ウィルスにより滅亡に瀕した人類に希望をもたらしたのは……という。
映画版では小説版での「皮肉な構図」が弱められ、よりシンプルな破滅テーマSFになっています。私は小学生の時分に映画を観て「ウィルスによる破滅テーマSF」と思っていました。しかし中学生の頃に原作小説を読み、本作のもう一つのテーマに気がついたのです。
「これ、風邪で人類が滅ぶ話だ」
映画では漏洩したウィルスがそのまま疫病として広まり、人々はそれを「致死率の高い風邪」だと受け取る構図となっています。しかし原作でのウィルス(正確には核酸)兵器は、その時期に発生/流行した凶悪な新型インフルエンザを隠れ蓑にして、姿を隠したまま人類に襲い掛かります。ウィルス兵器の存在は、単体でも致死率が異常に高い新型インフルエンザウィルスの発生のきっかけにはなったかも知れませんが、あくまでも別ものです。ウィルス兵器の核酸を拡散する(……洒落ではありません)ビーグルとして機能するのです。本作では、まるで「講座」のようにインフルエンザの特性について何度も説明がなされます。それを読むことで、人類が日常の一部と思っているインフルエンザとは、実は特効薬が(1960年代当時)まだ発見されていない、侮りがたい存在であることを読者は理解します。見方を変えれば、インフルエンザで人類が滅ぶことに説得力を与え
る小道具としてウィルス兵器が用いられてるとも読めるのです。実際、中学生の私はそう読みました。本作はいわば「日常における隣人」と慣れ親しんでいたモノの正体を明かされる恐怖を描いたSFでもあるのです。
(……そうと気がついて以来、風邪をひくたびに読み返しているので「最も多く読み返しているSF小説」になったワケですが。閑話休題)
作中、何度か大きなスペースを割いて文明、ひいては人類という生物の在り様に対する批評が行われます。あるいは地の文で、あるいは登場人物の言葉によって。そこで語られるのは常にダイレクトに真理にアプローチしない/できない人類の未熟さと未来への希望です。それは小松氏のメッセージなのですが、現状への諦観とそれでも文化/文明の持つ可能性を信じたい複雑な心理が反映されています。今現在の眼で読むと、ストレートな言葉に気恥ずかしさを覚えるかも知れませんが、それでも読み応えのある内容となっています。そしてそうした言説は、当然のように「冷戦」を反映しています。
2000年代始めから20年近くをかけて、今現在、日本SF小説界は「SF夏の時代」とも呼ばれる爛熟期を迎えています。その嚆矢は故・伊藤計劃氏による二本の長編SF小説『虐殺器官』『ハーモニー』のヒットです。この二作には1974年生まれの伊藤氏が体感し、同世代の私も体感した80年代の「冷戦」が反映されています。なぜ唐突にそうした話しをするかと言えば、おそらくは我々世代までが実感し、後に創作物にも反映させることになる空気感が、『復活の日』映画版でのラストの変更と関係があると思われるからです。
先に述べたように、映画版ではラストに変更が加えられ「医学と兵器」の皮肉が弱められています。
その理由はおそらく、冷戦当時に「フィクションにおいて核兵器をどのように描くか」という話しに関わってきます。
ネタバレになりますので具体的には書けませんが、本作後半では核兵器が重要な役割を果たします。それは小説の発表当時の(キューバ危機は1962年です)核兵器による全面戦争の不安が反映されているはずです。そして、その不安を敢えて皮肉な形で「反転させる」のがSF作家の想像力とも言えます。
それに対してより不特定多数の(SFに対して全く関心がなく基礎知識も無い)人々が観る映画では、そうした表現の仕方は難しかったのだと思います。実際、1980年代の「冷戦」の空気感を感じながら映画を観て小説を読んだ私も「そりゃこうするよな……」と納得したものです。その空気感を体感していない世代には伝わりにくく、体感していても既に感覚が薄れてしまっているかも知れませんが。
いずれにせよ、人類の「罪」に対する裁きにも見える映画版のラストを、私は肯定的に捉えています(尚、小松氏は映画版に対して高い評価をしています)。
そうした時代背景を踏まえて、そして同時に現代の空気感を肌で感じながら『復活の日』を読むという読書体験……先に述べたように万人にお薦めするものではありません。しかし、本書を読むことでひょっとしたら一歩引いた視座から世界を眺めることができるかも知れません。
時代を超えた傑作です。興味を持たれたなら是非、手にとってくださいませ。そして、映画版もお楽しみいただければ幸いです。
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